2008年12月30日 (火)

日本語が亡びるとき

 ネットで評判になっているらしいのですが、全く知りませんでした。
インターネットが普及して英語の時代になると、
<叡智を求める人>は英語で書き始めるようになる。
数学や科学の論文など翻訳可能なものはそれでも良いが、
文学のように言語と不可分で翻訳不可能なものもあり、
そうなると日本文学と日本語は亡んでしまうだろう。
大雑把に要約するとこんな感じでしょうか。

 前半から中盤まで、5章ぐらいまでは面白く読めた。
エッセイ風の1・2章から概念整理の3章を経て、
いかに日本近代文学が奇跡的に素晴らしいかの4・5章。
しかし、6章で、インターネットと英語の時代が来て
日本文学と<国語>としての日本語が亡びるという話になるが、
どうにも説得力がなくて首をひねらざるをえなくなり、
そのため7章での教育改革の話も共感できない。

 そもそも私が、近代だろうが現代だろうが
文学に全く興味を持ってないからかもしれないが、
文学が亡びるのは英語とかインターネットは関係なく、
単純に表現様式としての文学が限界に達しただけではないかと普通に思う。

 筆者も6章の最初にこういう普通の議論を抑えていて、
「文学の終わり」の歴史的根拠として
(1)科学の急速な進歩(2)<文化商品>の多様化(3)大衆消費社会の実現を挙げている。

(1)「人間とは何か」みたいな大切な問いについて、
昔は文学が答えるもんだと思われていたが、
最近はDNAとか脳科学なんかが重要性を増している。

(2)また芸術と娯楽を兼ねる<文化商品>は
昔は文学が唯一ふつうの人の手に届くものだったが、
新しい技術でレコード・ラジオ・映画・テレビドラマが普及してきた。

(3)大衆消費社会で流行る文学とは、
たんにみなが読むから読まれるという本に過ぎない。
多くの場合、ふだん本を読まない人が読む本で、つまらないものが多い。

 しかし、作者はこういった分析をあっさりと退けている。
そこから英語とインターネットと日本文学の亡びという話になるのだが、
ここの論理展開に無理があると思う。
作者は昔と変わらず文学を志向する優秀な人がいると仮定しており、
そういった人たちが英語でしか書かなくなることを憂慮している。
だが、それなら英語文学はそんなに栄えているのだろうか?
私が無学だからかもしれないが、そんな偉い近年の英語作家は聞いたことがない。
やっぱり英語圏でも彼女が羅列する19世紀あたりの作家が一番偉いんじゃないだろうか。

 ということは、やはり上記の(1)(2)(3)が
文学一般にとって致命傷だったということではないだろうか。

 まず(3)の大衆化という問題だが、
この手の話はそれこそ100年前から言われていることで、
まあ、どうしょうもないんじゃないかと思います。

 次に(1)だが、これも至極当然の流れ。
大体、文学がそんなに有難いものだったこと自体が異常。
近代文学が対象とした問題は雑然としていて、
現在の視点から冷静に見直してみれば、
自然科学や社会科学で対応すれば済む問題も多いし、
どうしても無理なら思想とか宗教とかで対処すべき問題もある。
これらを一緒くたにして文学でファイナルアンサーという考え方自体が
古いし、めちゃくちゃだし、まあロマンだよね、としか言いようがない。

 (2)は芸術としての表現様式につきものの話。
どんな表現様式でも、それが発明されたときには開発の余地が大きく、
優秀な人を集めて技術進歩が進むという現象が見られる。
しかし、いつかはそれも飽和し、新味を出すのが難しくなってくる。
こうなると優秀な人はその分野から離れて行く。
これまた至極当然の流れなんじゃないかと思う。

 作者が一番力をこめて書いているのが6章、
それも彼女が思い入れのある漱石に仮託して語る部分である。

くり返し問うが、今、漱石ほどの人材が、
わざわざ日本語で小説なんぞを書こうとするであろうか。

 私の答えは酷くシンプルだ。

 うーん、そっすねー、マンガでも書いたんじゃないっすかねぇ。
多分、妙に濃い目の絵柄のマンガを描いて
「そこにシビれる!あこがれるゥ!」とか
「あ…ありのまま 今起こった事を話すぜ!」とか
「てめー頭脳がマヌケか!?」とか言ってたんじゃないっすかね。

以上。

2008年3月 6日 (木)

ヒットエンドラーン、ヒットエンドラーン

MajiでKoiする5秒前

2007年12月 7日 (金)

理念のために死ね

 またアメリカで銃乱射事件が起きてしまいました
今年は4月にバージニア工科大学で乱射事件があったばかりなのに。

 過去の例と同じように犯人は自殺したようだが、
その後の報道も全くパターン化されている。
遅々として進まない銃規制と反対派の意見。
NRAの影響力と「アメリカの自由」

 いつもの流れだったのだが、1つひっかかることがあった。
それは銃規制反対派の意見の1つで、
「凶悪犯から自ら身を守る」ために銃が必要なのだ、というもの。
自衛の権利は銃保有の最大の根拠なので非常に重要な議論だ。

 しかし、銃保有が犯罪の抑制になるという議論は相当おかしい。
どこがおかしいかって? それは犯人が「自殺」していることだ。
つまり、誰も自衛できていないわけだ。
今回も、バージニアでも、コロンバインでも。
警察等が凶悪犯を殺したという事例ならあるが、
一般人が自衛のため反撃して倒したというのは聞いた事がない。

 いくらアメリカ人で銃を保有している人でも、
毎日腰にぶら下げている人は多くないだろう。
そういう人が今回の事件でどうやれば「自衛」できたのか。
まずショッピングモールから逃げ出さなくてはならない。
そして車を飛ばして自宅に帰り銃を取り出し、
ショッピングモールに引き返して犯人と銃撃戦。
こんなん、間に合うわけがないやないですか。

 もちろん、アメリカの銃犯罪は乱射事件だけではない。
年間1万人超、毎月1000人、毎日30人が銃で死んでいるのだから、
被害者が銃で反撃して犯人を倒す、
もしくは殺されずにすんだ、という事例もあるかもしれない。
しかし、アメリカのことなので統計を調べるのも難しいのだが、
普通に考えたらこんなことが多いとは思えない。

 もちろん、これまでの議論は
「銃保有が犯罪抑止力がある」という実証的な議論に対する反論である。
現実的には銃があることで殺される人は多く、
凶悪犯への抑止力はほとんどないとしても、
「理念上の自衛権」が重要だ、という議論もありえる。
理念のために人が毎年万単位で死んでもかまわない、と。

 こう言われてしまえば、実証的な反論の余地は無い。
前にも日本の交通事故死亡者に関して議論したが、
利便性のために万単位の人間が死んでもいいのなら、
理念のために万単位の人間が死んでもいいのかもしれない。

 その程度に人間の命は軽い。それだけのことだ。

2007年5月17日 (木)

自分が好きか嫌いか

Q あなたは自分が好きですか?

 やたらと自分自身のことが好きとか嫌いとか言う人がいる。
試しに「自分が好き」「自分を好き」でググったら何十万何百万とヒットする。
自分にはどうにもこれが不思議な感じを受ける。
あんまりそういうことを考えたことがないからだ。

A 好きでも嫌いでもない。好き嫌いの対象ではない。

 おそらくこれは自分をどれだけ意識するかどうかなのだろう。
そういえば、自分の言動を意識したことはあまりない。
おそらく自分みたいな人間が近くにいたら嫌いになりそうな気がするが、
幸か不幸か(おそらく前者)自分を客観的に見聞きする機会はほとんどない。

 ところが最近、ごく限られた場面だがそういうことがあった。
所属するフットサルチームで自分たちのプレーを収録したDVDを貰ったからだ。
仲間のプレーは見慣れているので違和感はないのだが、
自分のプレーを見るのは本当に興味深いことで、
何度も何度も見返してしまった。

 「自分(のプレー)が好きか」と問われれば、Noだ。
マケレレとかガットゥーゾとか献身的な選手が好きなのだが、
どうにもだらだらプレーしている時間が長い。
昔はもっときびきびとやってたと思うんだけどなぁ…
良く言えば無駄な動きが減って要所で頑張っているという事なんだけど、
もう少しなんとかならんものかと思いました。

2007年4月24日 (火)

プラトンに脳科学で答える

問題です

 直角三角形を思い浮かべてください。
残りの2つの角の角度は30度と60度とします。

問1.辺の長さの比を求めなさい

問2.あなたが思い浮かべた三角形は何色ですか?

 これは以前、友人と「イデア」について話していた時だったと思うが、
2番目の問いに対して答えが全く出なかった。
白地に黒だった気もするし、黒地に白だった気もする。
しかし、おそらく正解は「色なんてなかった」だと思う。

 三角形の問題を考えるときに色は必要ない。
むしろ色が無い方が効率的だと思う。
あまり数学が得意でない別の友人に同じ質問をしたら、
どうも三角定規を思い浮かべていたらしい。

 人は抽象的で無色な「三角形」を思い浮かべることは可能なのか。
ちゃんと調べてないが、ありえるのではないかと思う。
人間の脳味噌は役割分担が進んでいるので、
「図形」だけを扱う部位があってもおかしくない。
数学の訓練の結果、この部位だけが働くこともあるだろう。
イデアは本質界ではなく人間の頭の中にあるのかもしれない。

 こういう風に上手く質問を組み立ててやれば、
MRIなんかで脳の機能を特定化できるのだろうか。

 ただ被験者が「三角形」を思い浮かべているといっても、
それが私が思うところの「三角形」と同じ保証は無い。
なんかとんでもないイメージを思い浮かべているのだが、
数学の問題には完璧に答えられる可能性だってある。
とりあえず紙に書いてもらえばいいのだろうか。
なるほど、図形ならそれで大丈夫か。

 おそらくこういうことが問題になるのはより抽象的な概念だろう。
民主主義とは?死とは?知識とは?
一部の経済学者は、経済主体が正しい経済モデルを知っている、と主張する。
何が正しい経済モデルなのかを決めるのは経済学者なのだが…
しかし実際には人々はこんなことは知らないし知る必要も無い。
人々が世の中についての完全な知識が無いのに、
世の中はそれなりに成立しているということが面白さだと思うのだが。

2007年3月 1日 (木)

未来世代への倫理

結婚し2人以上の子どもを持ちたいという(若い人の)
極めて健全な希望にフィットする政策を考えていかないといけない
                     -柳沢厚生労働大臣

◆「少子化」の死角

 私はこの発言内容自体は問題はないと思っている。
もし発言者に知性と覚悟が備わっていれば、であるが。
柳沢にはどちらもあるとは思えないし、
しかも厚生労働大臣が言うのはいかにも拙い。

 それでは彼はどう言えばよかったのか。
これには以下のような模範解答がある。

「子供を産みたい多くの人が実際に産めるための政策が必要だ」

こう言えば誰も問題にしなかっただろう。

 しかし、これは所詮「模範解答」に過ぎない。
少子化が問題視されているため気づかれないが、
冷静に考えるとこれはかなり荒い解答である。

◆子供

 まず問題なのはその他の要望との関係だ。
人々が望むものは子供だけではない。
治安、環境、消費水準(所得)など色々ある。
子供はこれらと同列に扱われる問題なのだろうか。
それとも別の質を持つ問題なのだろうか。

 少子化が問題視される現実的な背景は、
高齢化社会を迎えて社会負担率が上がっていることだろう。
しかしこれは年金が賦課方式なことが問題なだけだ。
後は頭の古い人が「国力」みたいなことを言うだろうが、
それもどうでもいいのでここでは無視する。

 こう考えると、少子化は特別な問題ではない。
それは失業や治安悪化などと特別変わる点はない。

もっといい服を着たいのにユニクロ。
もっと美味しいものが食べたいのに吉牛。
もっと広い家に住みたいのにワンルーム。
もっと子供が欲しいのに一人っ子。

 しかし、そうではない、と考える人も多いだろう。
そしてそれは実際「正しい」と思う。
だがそういった感情が上手く表現されることはない。
せいぜい「人は子供を産んで育てて一人前」といった
古臭い価値観に則るぐらいしか手がない。

◆限界

 それは何故なのか。
やや大げさに言えば、我々が依拠している近代思想が
この問題に対して全く無力だからである。

 例えば社会契約論を考えてみればいい。
そこで想定されているのは全員成人である。
しかし現実の人間はまず子供として生まれてくるし、
いずれ死んでいかなければならない。

 大人になるために成長し、
大人になったら子供を作って教育し、
子供に見取られながら死んでいく。
これらは人生においてかなりのウェイトを占めるはずだが、
なぜかこういった側面が無視されてきた(*)

(*)近代思想の1つのカリカチュアである
経済学の一般均衡理論は無限期間生きる人を想定しているのは面白い。

◆未来世代

 子供がその他の欲求の対象と根本的に違う点がある。
それは彼ら自身がその欲求を持つということである。
そして、まだ生まれていない彼らの欲求に答えることも
広い意味での政治には求められている。

 上で書いた模範解答に欠如しているのはこの視点である。
極端な話、子供は生まれてくることを望まないかもしれない。
生まれてきたとしても良い環境と悪い環境があるだろう。
子供を産む人を社会が選び始めると
優生学的になってきていかにも気持ち悪い。
しかしレビットなんかの指摘を待つまでもなく、
生まれながらに不幸せな人生を送る可能性の高い子供もいる。

 ここまで大げさに考えなくても
少子化が望ましいと考える根拠もある。
経済学のOLGモデルで考えれば、
少子化になった方が未来世代にとっては
資産が多いだけ生活は豊かになる。
分かりやすくいえば、一人っ子が2回続けば
孫は祖父母4人を独占できるため
お年玉でがっぽり儲けることができる。

 もちろんこれは未来世代のことであって、
現役世代にとってみれば少子化は望ましくない。
つまり少子化は今生きている人たちにとって問題なのであって、
次に生まれてくる子供たちにとっては問題ではないかもしれない(**)

 逆の例としてアフリカの様な国を考えてみよう。
そこではむしろ子供の数を減らした方が
次の世代の一人一人の生活水準は上がるかもしれない。

 だったら子供の数を制限するのは望ましいことなのか。
しかし本来生まれてくるはずだった子供のことはどう考えるのか。
現実に生まれてこなかったのだから無視していいのだろうか。
本来なら生まれたはずの子供を生まれなくするのは、
とんでもない人権侵害ではないのだろうか。

 こういった問題について私たちは解答を持ち合わせていない。
先ほどのOLGモデルで考えてみても、
生まれていない人間の効用をどう評価するかに定説はない。
これは今現在の我々にはどうしようもない問題なのだ。

(**)もちろん生きている世代全員の利害は一致しない

◆妥協案と課題

 現実の対応策は以下のようなものだろう。
とりあえず、まだ生まれてきていない人間のことは考えない。
しかし一度生をうければ人権を保障する(***)
子供の数に関しては、今生きている世代の効用から判断する。
誰が子供を産むかは、表向きは介入しない。

 もちろん、これが「善い」判断なのかは分からない。
また別の問題として教育があるが、
これも非常に難しい問題だ。

 この本質的な問題をどうするかは、
今後の大きな課題だと思う。
しかしそれは解決可能なのだろうか。
そして、この問題に取り組むことは
はたして未来世代にとって望ましいことなのだろうか。

(***)どの時点で「生をうけた」かには解釈の余地がある。

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