2007年4月13日 (金)

フリーターに関する議論の問題点

 近年急増したフリーター・ニートは社会問題になっている。
特に社会学者の山田昌弘と経済学者の玄田有史はメディア露出度が高い。
本当は山田昌弘(誰かさんに名前が似すぎているが)を批判しようと思ったのだが、
低レベルな議論を相手にするのは生産性が低いし、
それが社会学を代表しているわけでもないかもしれない。
というわけで、色々読んだ本を見ていきながら感想を書いておく。

◆フリーターの増加は本当に社会問題なのか?

 多くの論者はこれを自明として扱っている。
しかし、気楽なフリーター生活をしていて
パラサイト・シングルを楽しんでいるだけかもしれない。
現在の所得が低くても、親の援助や遺産をあてにしているのかもしれない。

 これに対する反論はある。
例えば小杉礼子編『自由の代償』や小林大祐『フリーターの労働条件と生活』
(太郎丸編『フリーターとニートの社会学』5章)は
フリーターを自己認識から「夢追い型」「やむを得ず型」「なんとなく型」などに分類し、
正社員になりたいけれどなれない「やむを得ず型」がある程度いることを示した。

 しかし、これは例の山田昌弘に批判されている。『希望格差社会』5章で

私は、このタイプ分類は、あまり意味がなく、フリーターが、
将来の希望をもてる定職に就いていないという事実が重要ではないかと思っている

いつか、自分の理想的な仕事や立場に就けるはず、と思いながら
単純労働者である自分の姿を心理的に正当化するのが、
フリーターの抱く夢の本質ではないだろうか。

 確かにフリーターが深刻な問題だとする立場からすれば、こうなるだろう。
しかし、この「フリーターの自己認識に基づく分類は有効ではない」という批判は
そっくりそのまま真逆の立場からも用いられる。
「やむを得ず型」もそう言っているだけで適切な努力を怠っており、
それが嫌だから正社員になる機会がないと自己正当化しているだけかも知れない。

 結局、議論はもとの地点に戻ってきてしまった。
若者の労働意識が変わって彼らがサボっているだけなのか、
少子化で親祖父母の支援・遺産が期待できるのか、
経済状況が悪化して本当に正社員として働きたいのに働けないのか。

 フリーターというのはある側面では経済問題である。
しかし社会学者はその理解が甘いので、どうも分析に適当感が漂う。
また彼らにインセンティブという観点が欠如しがちなのも問題だ。

◆どの程度の問題なのか?

 玄田有史が主張するように、フリーターであることは履歴効果を持つかもしれない。
30過ぎてフリーターの人はいまさら正社員になれないし、
そういう人は一生生産性が低いままの可能性が高い。
中高年が職を独占して若い世代の道を閉ざすのは問題かもしれない。
しかし、これも「どの程度か」には答えていない。

◆どういった性質の問題なのか?原因は何か?

 結局のところ、フリーターの増加に関してほとんど何も分かってはいない。
若者の労働意識が変わったのか、経済環境が良いから働かないのか、
それとも経済環境が悪いから働けないのか。

 経済環境が悪いということにも、色んな状況がある。
たまたま景気が悪い時に就職時期を迎えた世代というだけなのか。
それなら大竹文雄『日本の不平等』の8章がそういう効果を実証している。
しかし、ニューエコノミーがどうたらはよく分からない。

 あと忘れられがちな点だが、フリーターは女性に多い。
女性の有業率が30代前半に低下するのは有名で、
これはおそらく出産と子育てが原因だと思われる。
結局、まともに就職しても辞める・辞めざるをえない人はいるわけで、
だったら20代をレジャーと男探しに費やすようになり、
親がそれを支えているだけなのかもしれない。

 『希望格差社会』の7章は教育の問題を論じていて、
若者が適切な期待感を持てないことを問題視している。
要するに自己肥大を起こしているというわけだ。
これなら経済問題でもなんでもない。

 問題の原因が分からないと対策の立てようもない。
しかし、問題だけは確実に進行している、と思われている。
どうしたもんでしょうね。

2007年3月22日 (木)

都知事選

◆石原都知事の評価

 私は支持派も批判派もどちらも好きになれない。
「都知事」として彼はどうなのか
という部分を忘れている人が多いからだ。
単純に言ってしまえば「右翼」的な発言をする彼に対し、
「右翼」は賛同し「左翼」は反発する。
もちろん「右翼」的な部分は教育などに反映される、
かもしれないから全く都政と関係ないとは言わないが、
その他の重要な要素がごっそり抜け落ちている。

 一番彼のイメージと違うのは環境政策の取り組みだろう。
これについてきちんと評価している人がどれだけいるのか。
逆に言えば彼の都政のポイントは環境と治安ぐらい。
道路整備は当たり前の部分なので評価していいのか微妙。
言いっぱなし・やりっぱなしの政策も多い。
彼の仕事量を十分と見るか不足と見るかも大事な部分だ。

◆まともな4人

 先日、テレ朝とTBSで連続して4人が議論する機会があった。
それを見た印象は「(共産党も含めて)まともな人たちだなぁ」
政治家がTVに出てくるとまともに相手の言うことも聞かず、
声が大きい奴が勝つ傾向があるが、
この時はきちんとした議論になっていた。
国の政治家の議論よりよほどまともだったのは、
TV側がきちんとコーディネートしたのかもしれないが、
そもそもTVに出たがる政治家の質が低いからかもしれない。
もしくは全国平均より都民の方が水準が高いからかもしれない。

 現役都知事がこういう場面では不利になる。
成功した政策は過去としてあまり褒められないが、
失敗、あるいは問題点は糾弾されるから。
それでも石原はそれなりに答えていたし、
他の人たちも批判はするが嫌らしさがない。
共産党は大体どうしょうもない人間が多いが、
吉田さんは妙にフレンドリーで明るく感じがいい。
黒川さん以外なら誰に任せても大丈夫な気がしてきた。

2007年3月20日 (火)

児童ポルノはなぜ悪いのか?

◆要旨

 児童ポルノが問題視されているが、
その根拠としては犯罪抑止と児童保護の2つがある。
しかし前者は根拠としては弱い上に問題があり、
後者についても難しい問題がある。

◆現状

 「クラブきっず」の小学校教諭・渡辺敏郎が逮捕された事件から
幼児性愛者や児童ポルノがマスコミで話題になっている。
週間文春2月22日号の「娘をハダカにして稼ぐバカ親たち」という記事
日本でロリコンが如何に巨大なマーケットであるかを取り上げ、
18日の「スタメン」もこの問題を取り上げている。
ネットでも満富俊吉郎という人が文章を書いているが、
この辺が世間の普通の反応を代表していると思う。

 現行の「児童買春・児童ポルノ処罰法」は児童ポルノを禁じているのだが、
U-15系(もちろんサッカーの代表ではない)とか
ジュニアアイドルとか呼ばれている人たちの
際どい写真集は野放し状態になっているようだ。

 あまりにこの分野に疎いのだが、
なんでも泉明日香という子が有名らしい
13歳でTバックの写真を撮ったらバカ売れだそうで
確かに世も末だという感じもしてくる。
(まあ、この子に関しては顔が老けてるから
言われなければ年齢に気づかなかったかもしれんが…)

 これに対して世論は「取り締まれ」一色。
しかし感情的、生理的嫌悪感が先立っていて、
冷静な議論はほとんどなされていない。
だから敢えて

児童ポルノ(やそれに近いもの)はなぜ問題なのか

について考えてみたい。

◆犯罪誘発阻止

 児童ポルノ反対の根拠の1つは
児童が性犯罪の被害にあう可能性が上がるということだろう。
しかし、これは根拠として弱い感じを受ける。

 まず事実として児童性犯罪が増えるかどうか分からない。
ポルノを見て興奮して犯罪を犯すやつもいるだろうが、
これがガス抜きになって犯罪を抑制するかもしれない。

 これには人間の性癖に関する考え方の相違もある。
もし人間の性癖に対して後天的な影響が大きいのであれば、
児童ポルノを表に出さないことで
幼児性愛者を増やさず犯罪を抑止できるかもしれない。
しかし、もし児童性愛が先天的なものであれば、
その抑圧は逆に大きな問題になるかもしれない。

 これらについてはっきりとした結論が出ていない以上、
急激に取り締まることはリスクがある。

 また犯罪誘発阻止という観点に立つならば
その他の多くの表現を制約しなくてはならなくなる。
今のところ問題になっているのは実在の児童のポルノだが、
ロリコンモノのエロゲーなんかも当然アウト。
エロでなくても深夜のアニメなんかは大抵駄目になる。

 また児童以外でも表現は大きく制約される。
強姦される女性が一定数いる以上、ポルノ全体が厳禁。
暴力シーンの多い映画・TV・アニメも禁止。
その他もろもろが禁止になってしまう。
表現の自由は事実上不可能になるだろう。

 この観点に立つと、問題は特に児童に限った話ではない。
しかし児童ポルノでなければここまで問題は盛り上がらないし、
実際、児童ポルノに特に問題を感じる人が多いだろう。
また表現の自由の抑制が大きくなりすぎてしまう。

◆未成年者の保護

 やはり反児童ポルノの根拠の本筋はこちらだと思う。
彼女たちは判断能力が十分でないため、
親などの大人によって操作され
結果として大きな被害をこうむる恐れがある、というものだ。

 この立場は児童ポルノの買い手を批判する根拠も与えてくれる。
児童ポルノは児童を傷つけるリスクの大きなものであり、
その購入者はその行為に加担していることになるからだ。

 しかし、やはり表現の自由の問題は残る。
児童ポルノが「不健全」なものであるとしても
「不健全」なものを表現する自由は全く認められないのだろうか。
また被写体の女の子の意思は全く尊重されないのだろうか。

 現実問題として、芸能人とやっていく上で
なるべく若い内に芸能活動を始めるのは有利だ。
もし彼女に不健全な美しさが宿っていたとして、
それを表現することを完全に禁止してしまっていいのだろうか。
ナタリー・ポートマンはやはり『レオン』が最も印象的だし、
栗山千明は11歳の時に『神話少女』というヌードを篠山紀信に撮られ、
それが伝説的なものになっているそうだ。
もしこれらがなければ、その後の彼女たちの活躍はなかったかもしれない。
またロリコンの語源となった『ロリータ』はどうだろうか。

(『レオン』と泉明日香のどちらが「不健全」か。
 これは人によって意見が分かれるのではないかと思う)

 また、この立場では多くの英才教育にも否定的にならざるをえない。
ヴァイオリンや歌舞伎は物心がつく前から叩き込まれる。
彼・彼女の人権はどうなっているのだろうか。
これはヴァイオリンや歌舞伎が社会的にまともなものだと考えられているから
問題になっていないだけで、彼らは大きく自由を制限されている。
もしヴァイオリンしかできない人間に育てられたのに、
ヴァイオリン演奏家として成功しないかもしれない。
この人と泉明日香はどちらがより悲惨なのだろうか。

 こういう極端な例でなくても、
明らかに子供が不幸になる育成環境というものがある。
しかし、それらについて行政は最低限の介入しかしない。
つい最近まで親の虐待は野放し状態だった。
「家庭」にはかなりの自立・独立性が認められているのだ。
はたしてポルノもどきを取り締まる根拠はあるのだろうか。

◆提案

 まずは現実の分析がなされるべきだ。
児童性愛者はどれだけいるのだろうか。
そうなったのは先天的なのか後天的なのか。
彼らに対して児童ポルノはどういった影響を及ぼすのか。
性犯罪を抑制するメカニズムとして有効なのは何か。

 また、10代前半の女の子に性的な表現をさせることが問題だと仮定すると、
ジュニアアイドルのTバックを取り締まるのには賛成だが、
『レオン』はR指定にでもして残すべきだと思う。
これは『レオン』の方がマシだからではない。
むしろ『レオン』の方が不健全だとすら思う。
しかし芸術性・表現の自由・女優という職業の特殊性と
児童保護のバランスを考えた上で、
『レオン』は残す価値があると思う(『ロリータ』も)。
もちろん特別な根拠があるわけではないが、
こんなところではないかと思う。

◆あとがき

 ここでは児童性愛が問題であることを前提としたが、
本当にそれは問題なのか、何歳未満が問題なのか、
それがどういう種類の問題なのか
ロリコンは本当に異常なのか、
ロリコンを糾弾する人は彼らと無関係なのか、
についてはまた別の機会に書きたい。

2007年3月 3日 (土)

不都合な真実

<温暖化防止>ゴア氏宅で電気・ガス浪費 米民間団体が暴露

地球温暖化の危機を訴えたドキュメンタリー映画「不都合な真実」で
アカデミー賞「長編ドキュメンタリー賞」を受賞した米前副大統領、
アル・ゴア氏を地元テネシー州の民間調査団体が26日、
「自宅では電気やガスを浪費している。偽善者だ」と批判、
ホームページでゴア氏宅の電力消費量などを暴露した。

 私は環境保護とか言ってるやつは十中八九嫌いだ。
なぜなら、そいつは大体車に乗っているから。
車は毎年確実に日本人数千人の命を奪い、
その何十倍もの人を負傷させるだけでなく、
どう考えたって環境には最悪の代物だ。

 最近は環境問題への意識が高まったのか、
自動車メーカーも環境系のCMをすることが多い。
トヨタはプリウスでハイブリッドを売り出したし、
ホンダも最近エコなCMをやっていて、
しかもF1マシンをエコカラーにするらしい。
あの非常にやかましく環境破壊の象徴のようなF1カーで。

 環境保護とか言ってるやつに聞きたい。
お前らは本気で環境を守る気があるのか。
それに伴う生活水準の低下に耐えるつもりがあるのか。
特にヨーロッパの連中は先進国の生活水準を享受しながら、
同時に環境先進国のつもりなのだからお笑いものだ。

 環境が本当に心配ならどうればいいか。
話は簡単だ。車に乗らなければいい。
大抵のところは自転車で移動できる。
皆が車に乗らなければ、経済活動もそれに合わせる。
コウガイ大型店は姿を消すだろう。
通勤通学は電車を使えばいい。

 その他で大きいのは工場と家庭用電気。
これはどちらもガチガチに規制を強化し、
とにかく環境に悪い方法を避ける。
当然、様々なコストは上がるだろう。
電気代も今の何倍も払わなければならないかもしれない。

 これだけの覚悟が出来ている人だけが
「環境保護」と胸を張って主張する権利があると思う。
私は普段の生活は自転車と電車だが少しは車に乗るし、
電気もこまめに消すが使わないわけじゃない。
電気代や生活コストが何倍にもなるのは絶対嫌だ。
だから「環境保護」なんて口が裂けても言わない。

 そこまでない人が「小さなエコ」をすることもいいことだ。
多かれ少なかれ世の中はすぐには大きく変わらないし、
いくら環境悪化が急速なものであったとしても、
対応はなかなか進まないだろう。

 そういう人間には謙虚な姿勢を求めたい。
自動車メーカーがエコCMするのは最低。
車に乗る奴に「環境保護」なんて言って欲しくない。

「私たちは環境に非常に悪いことをしていますが、
 それでも以前よりは少しだけマシにやってます」

こんな所がせいぜいだと思う。

 もちろん「環境保護」が偽善であったとしても
だから即悪いというわけでもない。
例えタテマエでも「環境保護」が成立すれば、
少なくともそれに逆行する政策は取られにくい。
そういう意味で「環境保護」は重要だとすら言える。

 結局のところ、社会をより良くするのは醜悪な偽善だ。
人間が基本的に自己利益に基づき行動する以上、
そしてそれを認めたがらない以上、
こういったことは繰り返し続くのだと思う。

2007年2月15日 (木)

バレンタインデー

 今年の2月14日はひたすら家に引きこもってた。
退屈しのぎにバレンタインデーという「制度」について考えた。

 バレンタインデーは女性が男性に告白する日だが、
クリスマス同様、恋人や夫妻が一緒にすごす日でもある。
なぜこういった日が重要かというと、
パートナーが浮気をしていない確認になるからだ。

 男女にとって重要な日は結婚記念日や
付き合い始めた記念日、お互いの誕生日なんかもある。
しかしこれは彼・彼女に特有な日であるため
別にこの日に一緒に過ごしたとしても、
相手が浮気していないという保障はない。

 しかしバレンタインデーやクリスマスはそうではない。
これらの日は自分にとっても浮気相手にとっても重要な日だからだ。
だからその日に自分と一緒に過ごすということは、
パートナーが浮気をしていない証拠になる。

 逆に言えば、そうでないパートナーは浮気をしている可能性が高い。
たとえそれが真っ当な用事であり、それを確認できたとしても、
同じ理由で浮気相手に言い訳をしているかもしれない。
だから、特に女性が、そういった日を重視するのは合理的だ。

 ちょっと前に明石屋さんまが
「僕はクリスマスには絶対仕事してるんですよ」と言ったら、
加賀まりこに「そう言って小鳥ちゃんたちに言い訳してるんでしょ」
とつっこまれ、さんまが苦笑いするってのがあったな。
あれは何の番組だったんだろう?サンタクかな?
(今の今までサンタクロースとかけたシャレだと気づいてなかった…)

 この「制度」に従わない人はパートナーを得にくいし、
もしいても別れてしまう可能性が高くなる。
結局、「制度」に従わないタイプの人は
パートナーがいない可能性が高くなるし(進化的説明)、
「制度」に従うことが合理的な戦略になる(Nash均衡)。

 もちろんこういった「制度」が普及するには
一定の割合がそれに従うことが必要だが、
それを1度超えてしまえば後は一気に普及して維持される。

2007年2月12日 (月)

うどんを食べながらガラパゴスを思う その3

 こうして考えてみると、
多様性の維持というのは正しいようで
特別根拠があることではない。

 ただし「正しい和食」の認証制度に象徴される
日本側の動きは単純な文化の多様性維持の問題だけではない。
むしろその背景にあるのは、
多様性の相互理解の欲求ではないかと思う。

 欧米のヘンテコ和食は欧米の日本理解の象徴である。
いつまでもたってもエキゾチック・ジャパンから抜け出さない。
他人に自分を知ってもらいたいというのは
普通の人間関係でも見られる欲求だと思う。

 だったらやることは1つだ。
日本の文化を知ってもらえるように努力すること。
日本は文化的なマイノリティーなので
この分野で苦労することは間違いない。
ただ、その努力はまだまだ不足している。
政府もアホな農水大臣に騒がせるより、
もうちょっとマシな文化政策を考えた方がいい。

 しかし、私はこの議論には賛成しない。
別に外人が日本のことをどう考えようが関係ないと思う。
日本人が日本のことを知ってもらいたいと言うとき、
その対象はまず間違いなく欧米である。
これは劣等感の裏返しに過ぎない。

 自らの価値基準をもっていれば、
他人の評価などはどうでもいいことだ。
むしろそちらで努力された方がよろしいと思う。
ガラパゴスのゾウガメは発見されて喜んだだろうか?
彼らは何にも言わないけれど、
迷惑だったに違いない

2007年2月10日 (土)

うどんを食べながらガラパゴスを思う その2

 最近、アホの農水大臣が「正しい和食」の認証制度をぶち上げた。
確かに海外で食べられている「和食」はキワモノ揃いだ。
作っているのも韓国人や中国人だったりするらしい。
イタリアがレストラン認証制度で頑張っている先例もあるし、
こういった日本の反応も理解できないこともない。
もちろん、それに対してはアメリカあたりからの反発も強い。
このあたりはニューズウィーク日本版2007-2・14号、
その名も「ここが変だよ 寿司ポリス」に詳しい。

 別にこういう制度はあってもなくてもいいと思う。
確かにアメリカに行ってトンデモ和食を食わされたら話にならんから、
まともな店とそうでない店の区別がつけば便利だ。
今のところ「ジャパン」に妙な付加価値があるから、
それに金を持ってるアメリカ人が群がってるだけで、
その分け前に預かろうともめるのも理解できる。
日本政府はさっさと認証制度を作って儲けたらいい。
制度を作ってもそこから漏れた店が支持される可能性もあるが、
そうなったら単に儲け損なっただけでしょうがない。

 ただし、問題があるとすれば
アメリカナイズされた「和食」の逆輸入だろう。
かく言う私もマグロの刺身には必ずアボガドを添えるようになっている。
もちろん多少の交流なら文化を豊かにもするが、
マックなんかが広まっていることを考えると、
今後は日本でも変な和食が広まらないとも限らない。
それはいくらなんでもヒドすぎる話だ。

 ここで問題は2つある。
それは変な和食が本当に日本で広まるかという実証的な問題と、
それが広まるのは悪いことなのかという規範的な問題だ。

 1つ目の問題は難しい。
実際にアメリカのヘンテコ料理が普及する可能性は低いと思う。
ただマックの普及に象徴されるように、
既に和食は崩れ始めているとも言える。
見た目は和食でもレトルトやインスタントの味噌汁なんてのもある。

 和食というのは日本のその他の文化と同じように繊細な印象を受ける。
繊細というよりは箱庭的と言った方が正確だろうか。
限られた範囲の中でどれだけ優れたものを作るか。
パスタもうどんも小麦と塩と水から作ったものだが、
うどんはそれだけで料理として成立している。
パスタはどんなに美味しくても、
それだけで食べることはない。
うどんも「狭い範囲での自己完結性」という
日本の文化を象徴している。
これは盆栽や日本刀にも通じる部分である。

 ただし、繊細なものは失われやすい。
その他の文化と同じように和食も失われつつある。
ただし、それが外的な要因なのか内的な要因なのか、
そしてその2つが区別できるのかは分からない。

 より本質的なのは2つ目の問題だ。
もし日本人がマックやヘンテコ和食を受容し、
「本当の和食」を食べなくなったとしても、
それに何か問題があるのだろうか?
人々は食べたいものを食べるだけだ。

 もちろん、食事というのは単純な自己選択の問題ではない。
子供の頃からの食習慣にかなり影響を受ける。
経済的だからという理由で変な料理が普及する可能性もある。
文化的な観点からの否定的な意見は無視できない。

 結局のところ、文化の多様性というお決まりのテーマに行き着く。
文化の多様性はどの程度保護されなくてはならないのだろうか。
フランスのように躍起になって保護するのが正しいのか。
それともなるに任せるしかないのだろうか。

 これはどちらの意見が正しいということはない。
もちろん、なんとなく多様性の維持が正しい気もするが、
ミル父の言うように「ケルト人はヨーロッパ文明に併合されて良かった」
ということだって不可能ではない。
この問題に結論が出るとは思えない。

 この問題は生物界の問題にも通じている。
最近、物流が盛んになるにつれて
外来種が在来種を脅かすという問題が注目されていて、
在来種を守ることが主張されることが多い。

 だが、なぜ在来種を守らなくてはならないのだろうか。
弱肉強食と言われるように、
進化の過程では不適応なものは排除される。
たまたま1つの進化的定常状態にあったとしても、
それが守られなければならないというものでもない。

 1つの意見としては、
一度失ったものは取り返しがつかないということだろう。
また人間が生物進化にコミットすることへの反感もある。
しかしこれらにしても生態系や進化の価値を前提にしていて、
それを認めない人を納得させることはできないだろう。

2007年2月 9日 (金)

うどんを食べながらガラパゴスを思う

 ここ数年、花粉症のせいなのか春先に胃がやられることが多い。
今年は暖冬の影響か、それが早く来ているようだ。
昨日の夜も全く腹が減らず、ご飯と納豆しか食べられなかった。

 だから今日の昼も重い料理は避けたいところ。
しかしあっさりした料理というのは意外と難しい。
和食の店でも揚げ物や油っぽい肉を出す店は多いし、
中華・イタリアン・エスニックは論外。
かといってそばは高くて馬鹿馬鹿しいし、
コンビニの飯も食べたくはない。

 そこで、とうとう胃を決してある店の暖簾をくぐった。
その店の名は「はなまるうどん」である。

 香川県出身者にとって県外でうどんを食べるほど鬼門なことはない。
最近の讃岐うどんブームで県外でも自称「讃岐うどん」の店は増えたが、
いい噂を聞いたためしがない。
「はなまるうどん」は一応香川にも店を出しているのだが、
地元での評判も決していいとは言えない。
香川を出て8年にもなるが、
加ト吉の冷凍うどん以外は口にしたことはなかった。

 店の前のディスプレイを見て1つため息。
もうこの時点であまり期待できないことがはっきりする。
なんというか、麺にコシと輝きがない。
地元にいるときは別に讃岐うどん信者ではなく、
食べる機会も多くなかったのだが、
それでも写真を見ただけで分かってしまうあたりが悲しいところ。

 食べてみると案の定。
讃岐うどんというより、
学校給食で配給される「ソフト麺」に近い代物。
出汁も何を使っているのか微妙に香りが変、というか強すぎる。
おでんもこんにゃくには弾力がなく、豆腐も不味い。
スジ肉だけは唯一まともだった気がした。

 ただ、かけ小とおでん3品で400円そこそこは悪くない。
相場的にも香川と大きく違わないと思う。
これには救われる思いがする。

 いったいなぜ東京の連中は千円近くもする蕎麦を平気で食べるのか。
どう考えたってファーストフードに過ぎないはずなのに、
通ぶって大枚をはたく神経を理解できない。

 うどんも蕎麦も所詮はファーストフードである。
高くても500円以内で食べられるのが正しい姿だ。
最近は変なブームに浮かれて讃岐うどん信者が増えてしまったが、
地元では安くて旨いから食べているに過ぎない。

 それに旨いといってもファーストフードの範疇でのことだ。
高校時代の恩師は「うどんは所詮小麦と塩を練ったもの」と言いながら
フランス料理屋でフォアグラを食べてたっけ。
それが正しい感覚というものです。

 そもそも讃岐でうどんが受け入れられたのは、
原材料が取れやすかっただけのことだ。
丸亀の小麦、瀬戸内の塩、小豆島の醤油。

 香川には年寄りが多いからいまだにうどんは人気があるが、
若い人はマックやケンタッキーに行ってるし、
最近はフレンチ・イタリアンの店も増えてきた。
それでも所得が低い人が多いし、
女・年寄りの雇用先としても製麺所・うどん屋は重要だから、
今後もそれなりにやっていくのだと思う。
(まあ、使ってるのはオーストラリア産の小麦だが)

 だが讃岐うどんの県外での受容のされ方を見ると、
おそらく本物の讃岐うどんが食べられる可能性は低いままだろう。
文化の画一化が懸念されている日本においてすら、
他の文化の受容がどれほど難しいことか。
いわんや他国においては、である。

 続く

(追)問題。話はここからどうやってガラパゴスにたどり着くのでしょうか?

2007年2月 8日 (木)

あるある、グルメ、痩せ過ぎモデル

 TVを見るのは楽しい。
そこには人々の欲求が反映されているから。

 「あるある」の捏造問題は社会的な影響が大きかったらしく、
今なお過去の放送の問題点が蒸し返されている。
TVが嘘っぱちの情報を流したことに対して真剣に怒る人がいる一方で、
訳知り顔は前から怪しさに気づいていたと鼻高々。

 だけどなんでこんなに「健康番組」に人気があるんだろうか。
1つは間違いなく痩せたがっている女の人が多いということ。
若い女の子には痩せ過ぎが多く、拒食症まで流行っているそうな。

 フェミニストはそれも男社会の問題というだろうが、
男から見ても痩せ過ぎの女の人は多い。
どう考えても彼女たちが目指している理想の体と
男が好む体型が一致しているとは思えない。

 問題はやはりファッション。
最近のかっこいい服には
そもそも痩せてないと着られないものも多いようだ。
それを細身のモデルがかっこよく着こなすものだから、
それに憧れる女の子が増えても仕方ない。

 そこで欧米では痩せ過ぎモデルを排除しようという動きもある。
確かにモデルの影響力を考えたら現実的な対処だが、
職業選択の自由の問題とも絡むため微妙なところだ。
腕っ節に自信があるやつが格闘技をやっても、
それを素人が真似して人を殴ったら犯罪だ。
だったら生まれつき体が細い人がモデルをやっても、
それを真似して拒食症になるならそいつが馬鹿だとも言える。
ただし、モデルの場合は究極的には服を売る商売に立脚していて、
ただの見世物とは違うという意味で難しい。

 しかし「あるある」なんかの健康番組を見ているのは、
若い女の子よりもいわゆるおばさんの方が多いと思う。
「あるある」でもダイエットとアンチエイジングは特に人気だったらしい。
痩せることと健康がリンクしていたのは間違いない。

 確かに高齢化社会を迎えて健康に対する不安感はある。
かといって「これを食べれば痩せる」といった標語は
どう考えたって短絡的だ。
何もせずに痩せる物質があったとすれば、
それに最も相応しい名称は「毒」だろう。

 痩せるのも健康になるのもやることは決まっている。
適度な運動、バランスの良い食事、睡眠時間の確保。
特別な決定打があったらそれはすぐに普及するはずで、
そんなものがないから次々あれこれ出てくるわけだ。

 そんなことは常識があれば分かること。
それが通用しなかったというのは、
世の中に常識がある人が少ないということだろうか。
しかし、それだけではないと思う。

 TVで流行のテーマといえば
「健康・ダイエット」「ファッション」以外では「グルメ」がある。
TVに限らずおいしい店や料理を紹介する情報媒体は多い。
しかし、おいしいものは普通少し体に悪いものである。
だからCMで「おいしいけれど体にいい」が決め台詞にすらなってしまう。

 「グルメ」に限らなくても人々は体に悪いことが大好きだ。
生活を楽にすればするほど、運動する機会は減ってしまう。
たばこや酒がどんなに体に悪くても、やっぱり止められない。
ただ、それに対するやましさがあるからこそ、
それを埋め合わせてくれる「健康物質」への欲求が強いのだと思う。

 人々が体に悪いことを好み、
それへの対処にも自堕落な手法を好む以上、
「あるある」はなくなっても同様の手法は繁盛し続けるだろう。

 とまあ、人を馬鹿にして酒の肴にするのも悪くはない。
ただ、これには笑って済ませない問題もある。
どんなに自己規律がしっかりしている人でも、
歳を取って老いや死が現実になってくれば不安になる。
そうなった時に健康番組に引き寄せられてしまうのも
あるいは仕方ないことなのかもしれない。

 「晩節を汚す」とか「有終の美」という言葉があるように、
老い方、死に方にも人生の有り様が反映される。
高齢者はどうやって死んでいくのだろうか。
若い人は死に向かってどういう準備をしているのだろうか。
既に生まれる人より死ぬ人の方が多くなってしまった日本において、
老い方・死に方というのはもっと考えられていいテーマだと思う。

2007年2月 1日 (木)

うぬ機械

 パタリロに、処女生誕したロボットの子に
神秘的な力が宿って大騒ぎになる話があったな、
なんて思い出してみた。

 大騒ぎになっているみたいだが、
冷静に考えてみると何が問題なのかは分かりにくい。
おそらく女性差別ということなんだろうけど、
1つの思考実験として厚生労働大臣がこう言ったらどうだろうか?

「女は産む機械です。男は産ませる機械です」

 これなら男女を平等に扱っているから問題はないんでしょうか?
どうせ辞任するなら、もう1つやらかしてから辞任してもらいたい。

 ただ、人間を機械呼ばわりすること自体に対する反発もあるようだ
だったらやっぱり「男は産ませる機械」と言っても駄目なんだろうな。

 じゃあ、なんで人間を機械呼ばわりしては駄目なんだろうか?
騒いでる人は「人権」と主張したいらしい。
じゃあ「人権」とはなんじゃらほい。
リンク先のHPから言葉を拾うと「自己決定権」ということらしい。
なるほど、機械は自分であれこれ決められないが、
人間様は自分で決められるし決める権利があるべきだ、と。

 だが不思議なことに、世間には疑問視されないけれど
人間様の人権を否定する発言が五万とある。

あの人はA型だから → 個性の無視、人格成長の否定
利己的な遺伝子 → 人間の主体性の無視
火星人だから地獄に落ちるわよ → 運命論
今日の獅子座の人には素敵な出会いがあるかも → 意味不明
あなたのスピリチャルがどうしたこうした → ???

 「利己的な遺伝子」を別にすると、
こういった発言をした人が糾弾されたという話をほとんど聞かない。
「利己的な遺伝子」にはまだ科学的な裏づけらしきものがあるが、
その他は全くワケワカメというのもの面白い。
それは要するに、人権だの自己決定権だのはお題目で、
話の中身が気に入るか気に入らないかというだけの違い。

 なるほど、いかにもキカイ的な反応ですな。

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