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2007年4月30日 (月)

対象の大きさ

 今や御自身が「バカ」の代名詞となった感すらある養老先生だが、
昔、と言ってもつい十数年前まで、は人文的知性の代表格ですらあった(と思う)。
ニュー・アカやポスト・モダンと違って今でもその価値が失われていないのは、
無意味で難解でファッショナブルな議論の代わりに
解剖学者としての誠実な思索の積み重ねがそこにあるからだ。

 『ヒトの見方』を手に取ったのは、特定の部分を読み返すためで、
それは文庫版では32頁からの「形を扱う」という節の、
その中でも特に最後の42頁の「頭の中の形」という部分だ。

現代人が持つ人体のイメージが…現実には、はなはな不統一ではないかと、と私は疑っている。

たとえば、化学なら、どういう人体のイメージを与えるのだろうか。
人体のかなりの部分は、水で占められている。
水の分子が1センチメートルの大きさとしたら、
人体はどのくらいの大きさになるのか。
数百万キロという単位になる。

たとえば、薬の効果を私に尋ねる人がある。
もちろん、私には、たいてい返事をする能力がない…
薬品とはつまりある化学物質である…
(しかし)人体は恐るべき数の化学物質の複合体であり、
それが全体として生きて動いている。
だから、単純な答を要求する方があきらかに間違っている(と形態学者は思う)。

 ここで「化学」をミクロ経済学、あるいはゲーム理論やIO、
「人体」をマクロ経済、「薬・薬品」を財政・金融政策と置き換えたらどうだろうか。
最近のMicro-Foundationのあるマクロ経済学というやつは、
化学で人体への薬の効果を測定・予想しようという行為に思える。

 このアナロジーを続けるならば、
化学物質を特定の部位に作用させようとすることは、
IOの特定産業における政策に対応させられるかもしれない。
これは疾患が特定部位に限定される問題ならば効果は高いが、
もし人体全体(あるいはかなりの部分)の問題が特定の部位で発症したのならば、
還元的な対策はその力を失ってしまう。

 だが、アナロジーが成り立つのはここまでである。
人体ならば肝臓が小さくなったり腎臓が倍の大きさになったりはしない。
しかし経済においてはある産業が縮小したり拡大したりする。
人体ならば幾つでも捌くことができるだろうが、
現実の経済のサンプルは極めて限られている。
経済の最小単位は人間になるのだろうが、人間は変化する。
しかも原子・分子と違ってその性質はよく分かっていない。
経済を構成するもう1つの要素である技術も同様である。

 数百メートルの崖を上ろうする時に、
地上でどんなに全力疾走をしても跳躍する力はしれている。
また崖をそのままロック・クライミングする人間も多くはない。
普通は足場を作って階段状に上っていく。
しかしどのような足場を作っていくかは簡単ではない。
崖を上るのならば下手糞でも根性さえあれば辿りつくのだろうが、
知においてはこの保証はない。

 人体ならば、例えば機能によって分けるという手がある。
循環器系、消化器官系、神経系といった具合に。
だが、もしバカが頭・腕・上半身・下半身・足と分けたらどうなるか。
なかなか悲惨な未来が予想されるところだ。

 経済学においても幾つかの分類法がある。
消費財・投資財・中間投入財など財の機能別の分け方や
数の多少はあるが産業ごとに分ける方法もある(*)
前者はY=C+Iというマクロ経済学的な分類法だ。
後者は財の代替性や生産技術にある程度対応したものだと思う。

 現状のマクロ経済学は前者に+αしたものだが、
将来的には後者の方にシフトしていくのだと思う(ほんとか?)
ここで問題になるのは、先ほど触れた産業構造の変化だろう。
いわば足場と思われたものが思いがけず動いてしまう状況だ
(ラピュタの最深部みたいなイメージ)。
これを引き起こす選好・技術の変化を突き止めるのは容易ではない。

 経済学者は進化学者・考古学者のようなものである。
しかし生物の進化の何万倍の速度での進化が目の前で起こる。
これを吉ととるか凶ととるか、なかなか難しいところだと思う。

(*)ついでに言うと、別の重要な区分として地域・国もある。
ただ、この意味合いについての議論は別の機会にしたい。

2007年4月24日 (火)

プラトンに脳科学で答える

問題です

 直角三角形を思い浮かべてください。
残りの2つの角の角度は30度と60度とします。

問1.辺の長さの比を求めなさい

問2.あなたが思い浮かべた三角形は何色ですか?

 これは以前、友人と「イデア」について話していた時だったと思うが、
2番目の問いに対して答えが全く出なかった。
白地に黒だった気もするし、黒地に白だった気もする。
しかし、おそらく正解は「色なんてなかった」だと思う。

 三角形の問題を考えるときに色は必要ない。
むしろ色が無い方が効率的だと思う。
あまり数学が得意でない別の友人に同じ質問をしたら、
どうも三角定規を思い浮かべていたらしい。

 人は抽象的で無色な「三角形」を思い浮かべることは可能なのか。
ちゃんと調べてないが、ありえるのではないかと思う。
人間の脳味噌は役割分担が進んでいるので、
「図形」だけを扱う部位があってもおかしくない。
数学の訓練の結果、この部位だけが働くこともあるだろう。
イデアは本質界ではなく人間の頭の中にあるのかもしれない。

 こういう風に上手く質問を組み立ててやれば、
MRIなんかで脳の機能を特定化できるのだろうか。

 ただ被験者が「三角形」を思い浮かべているといっても、
それが私が思うところの「三角形」と同じ保証は無い。
なんかとんでもないイメージを思い浮かべているのだが、
数学の問題には完璧に答えられる可能性だってある。
とりあえず紙に書いてもらえばいいのだろうか。
なるほど、図形ならそれで大丈夫か。

 おそらくこういうことが問題になるのはより抽象的な概念だろう。
民主主義とは?死とは?知識とは?
一部の経済学者は、経済主体が正しい経済モデルを知っている、と主張する。
何が正しい経済モデルなのかを決めるのは経済学者なのだが…
しかし実際には人々はこんなことは知らないし知る必要も無い。
人々が世の中についての完全な知識が無いのに、
世の中はそれなりに成立しているということが面白さだと思うのだが。

2007年4月18日 (水)

ブラック・ホーク・ダウン

 実はこの映画を見るのは2度目になる。
しかも1度目は俺にしては珍しい映画館での鑑賞で、
日本公開は02年と、もう5年も前になるらしい。
あのころは、それでもまだ年に何度かは映画館に足を運んでいたものです。

 上映時間の2時間24分はとにかく苦痛だったことしか覚えてない。
ひたすら戦争、それも悲惨な市街戦を続けていただけなのだから。
今でも娯楽作品としては大失敗だと思う。
金を取って見せるものではないと思う。

 しかし偶然にも最近ウィキでこの映画を振り返る機会があり、
意外と名作なんではないかと思うようになった。
理由は単純。戦争の最前線は悲惨なものである、という真実。
そして、それを知る機会は意外に少ないということ。

 人の死はドラマに欠かせない。
戦争は医療と並んで人の死を扱いやすいテーマだ。
だから、それこそ星の数ほどの戦争映画がある。

 だが、この映画は様々な点でそれらと異なっている。
まず戦争の大儀があまりはっきりしない。
アメリカ人がソマリアに介入する根拠は何だろうか。
核兵器を作りそうにもないし、原油があるわけでもない。
殺し合いを止めに行っている筈なのだが、
失敗したら自分たちも殺し合いの主体になる有様。

 戦ったものが賞賛される場面もほとんどない。
生き残ったものが死んだものに言葉を手向けるだけだ。
よく分からなかったのだが、兵士が基地に戻る直前
現地の人が笑顔で迎えていたのだが、
あれは兵士を馬鹿にしてたんだと思う。
なかなか救いようがないようにできている。

 だが、逃げ出そうとする兵隊はほとんどいない。
これは他の映画でも割とありがちだと思うが、
戦闘シーンが悲惨なだけにハッとなる。
だが自分が同じ立場でも逃げないだろうと思う。
集団心理や単純に興奮していることもあるのだろうが、
やっぱり「見方を守るために戦う」という要素が大きい。

 私は戦争絶対反対論者ではない。むしろ

戦争の確率を最小化するには
戦争というオプションを想定しておく必要性がある

と思っている。

 朝日新聞を象徴とする連中が総じてバカげているのは、
おそらく戦争が本当に凄惨なものだと考えてないからだと思う。
だから「戦争反対」というだけで
本気で戦争をしない方法を考えないのだろう。
バカはどこまでいってもバカで、
「戦争反対」というレッテルを時勢が変われば「鬼畜米英」に置き換えるだろう。

 そういう意味で、『ブラック・ホーク・ダウン』は
『火垂るの墓』と並んで子供に見せたい映画だ。
トラウマになってしまうかもしれないが…
これだけだと「戦争反対バカ」を養成しそうなので、
それと同時にヒトラーに対してチェンバレンらが
いかに駄目だったかという歴史番組もセットにしたい。
(異なる評価もあるようだが、少なくとも世論は駄目だった)

 幸か不幸か核兵器のせいで世界戦争はなくなった、と言われている。
しかし、ソマリアの虐殺みたいなことはザラにある。
それにどうやって対処したらいいかはよく分からない。
「愚かな野蛮人は殺し合いをするに任せろ」と言い切っていいものか。
助けに行ってもテロリストと民間人の区別はつかない。
「だったら戦術核で更地にしろ」となると、
そもそも助けに行ったはずの人まで殺してしまう。
しかもテロや軍事政権の武器の出元は先進国だ。
そういう意味では助ける側にも原罪がある。
なんとも気のめいる話ばかりだ。

2007年4月13日 (金)

フリーターに関する議論の問題点

 近年急増したフリーター・ニートは社会問題になっている。
特に社会学者の山田昌弘と経済学者の玄田有史はメディア露出度が高い。
本当は山田昌弘(誰かさんに名前が似すぎているが)を批判しようと思ったのだが、
低レベルな議論を相手にするのは生産性が低いし、
それが社会学を代表しているわけでもないかもしれない。
というわけで、色々読んだ本を見ていきながら感想を書いておく。

◆フリーターの増加は本当に社会問題なのか?

 多くの論者はこれを自明として扱っている。
しかし、気楽なフリーター生活をしていて
パラサイト・シングルを楽しんでいるだけかもしれない。
現在の所得が低くても、親の援助や遺産をあてにしているのかもしれない。

 これに対する反論はある。
例えば小杉礼子編『自由の代償』や小林大祐『フリーターの労働条件と生活』
(太郎丸編『フリーターとニートの社会学』5章)は
フリーターを自己認識から「夢追い型」「やむを得ず型」「なんとなく型」などに分類し、
正社員になりたいけれどなれない「やむを得ず型」がある程度いることを示した。

 しかし、これは例の山田昌弘に批判されている。『希望格差社会』5章で

私は、このタイプ分類は、あまり意味がなく、フリーターが、
将来の希望をもてる定職に就いていないという事実が重要ではないかと思っている

いつか、自分の理想的な仕事や立場に就けるはず、と思いながら
単純労働者である自分の姿を心理的に正当化するのが、
フリーターの抱く夢の本質ではないだろうか。

 確かにフリーターが深刻な問題だとする立場からすれば、こうなるだろう。
しかし、この「フリーターの自己認識に基づく分類は有効ではない」という批判は
そっくりそのまま真逆の立場からも用いられる。
「やむを得ず型」もそう言っているだけで適切な努力を怠っており、
それが嫌だから正社員になる機会がないと自己正当化しているだけかも知れない。

 結局、議論はもとの地点に戻ってきてしまった。
若者の労働意識が変わって彼らがサボっているだけなのか、
少子化で親祖父母の支援・遺産が期待できるのか、
経済状況が悪化して本当に正社員として働きたいのに働けないのか。

 フリーターというのはある側面では経済問題である。
しかし社会学者はその理解が甘いので、どうも分析に適当感が漂う。
また彼らにインセンティブという観点が欠如しがちなのも問題だ。

◆どの程度の問題なのか?

 玄田有史が主張するように、フリーターであることは履歴効果を持つかもしれない。
30過ぎてフリーターの人はいまさら正社員になれないし、
そういう人は一生生産性が低いままの可能性が高い。
中高年が職を独占して若い世代の道を閉ざすのは問題かもしれない。
しかし、これも「どの程度か」には答えていない。

◆どういった性質の問題なのか?原因は何か?

 結局のところ、フリーターの増加に関してほとんど何も分かってはいない。
若者の労働意識が変わったのか、経済環境が良いから働かないのか、
それとも経済環境が悪いから働けないのか。

 経済環境が悪いということにも、色んな状況がある。
たまたま景気が悪い時に就職時期を迎えた世代というだけなのか。
それなら大竹文雄『日本の不平等』の8章がそういう効果を実証している。
しかし、ニューエコノミーがどうたらはよく分からない。

 あと忘れられがちな点だが、フリーターは女性に多い。
女性の有業率が30代前半に低下するのは有名で、
これはおそらく出産と子育てが原因だと思われる。
結局、まともに就職しても辞める・辞めざるをえない人はいるわけで、
だったら20代をレジャーと男探しに費やすようになり、
親がそれを支えているだけなのかもしれない。

 『希望格差社会』の7章は教育の問題を論じていて、
若者が適切な期待感を持てないことを問題視している。
要するに自己肥大を起こしているというわけだ。
これなら経済問題でもなんでもない。

 問題の原因が分からないと対策の立てようもない。
しかし、問題だけは確実に進行している、と思われている。
どうしたもんでしょうね。

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