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2007年3月22日 (木)

都知事選

◆石原都知事の評価

 私は支持派も批判派もどちらも好きになれない。
「都知事」として彼はどうなのか
という部分を忘れている人が多いからだ。
単純に言ってしまえば「右翼」的な発言をする彼に対し、
「右翼」は賛同し「左翼」は反発する。
もちろん「右翼」的な部分は教育などに反映される、
かもしれないから全く都政と関係ないとは言わないが、
その他の重要な要素がごっそり抜け落ちている。

 一番彼のイメージと違うのは環境政策の取り組みだろう。
これについてきちんと評価している人がどれだけいるのか。
逆に言えば彼の都政のポイントは環境と治安ぐらい。
道路整備は当たり前の部分なので評価していいのか微妙。
言いっぱなし・やりっぱなしの政策も多い。
彼の仕事量を十分と見るか不足と見るかも大事な部分だ。

◆まともな4人

 先日、テレ朝とTBSで連続して4人が議論する機会があった。
それを見た印象は「(共産党も含めて)まともな人たちだなぁ」
政治家がTVに出てくるとまともに相手の言うことも聞かず、
声が大きい奴が勝つ傾向があるが、
この時はきちんとした議論になっていた。
国の政治家の議論よりよほどまともだったのは、
TV側がきちんとコーディネートしたのかもしれないが、
そもそもTVに出たがる政治家の質が低いからかもしれない。
もしくは全国平均より都民の方が水準が高いからかもしれない。

 現役都知事がこういう場面では不利になる。
成功した政策は過去としてあまり褒められないが、
失敗、あるいは問題点は糾弾されるから。
それでも石原はそれなりに答えていたし、
他の人たちも批判はするが嫌らしさがない。
共産党は大体どうしょうもない人間が多いが、
吉田さんは妙にフレンドリーで明るく感じがいい。
黒川さん以外なら誰に任せても大丈夫な気がしてきた。

華麗なる一族の影で

 こんなんでも視聴率30%ってんだから…

◆悲劇のはずなのに

 主人公が自殺する必然性が理解できない。
客観的には夢を奪われ父親に愛されなかったからなのだが、
感情移入できていないため唐突な感じを受ける。

 これはキムタクの演技力の問題もあるが、
演出や構成の問題も大きかったと思う。
まず主人公の敗北が決定するのが最終話だったし、
そこまでに彼の死を予感させるものはない。
しかも敗北の決め手もなんかあっさりしていたし、
(管財人の選定とかあんなに単純にいくものなの?)
その後の主人公の感情の動きも上手く表現されていない。
主人公が死んだ後に彼が父親の本当の子供であったことが判明するが、
そこでの家族の感情表現もイマイチだった。

 『白い巨塔』と比べてみると明らか。
主人公の病気が発覚する前にもその兆候があったし、
表向き平静を装っていても良心の葛藤もあった。
恩師との和解、親友の告知、死ぬ場面、
そして死後の手紙と場面も作っていた。

 『白い巨塔』は音楽のバランスも良かった。
威勢のいい音楽と「amazing grace」を並立させ、
あらかじめ悲劇を匂わせていたし、
だから最後にその音楽をそのまま使えばよかった。
一方『華麗なる一族』は主題歌こそ重厚だったが、
Desperado」の使い方もイマイチで
悲劇的な音楽をきちんと準備できていなかった。

 こうしてみると、個々の要素を豪華にしたばかりに
それに振り回されてまとまりが無くなった様に思える。
柳場、稲盛いずみ、相武さき、鈴木京か、銀ペイ。
この辺の絡みはもっと少なくてよかった。
裁判の場面も中途半端な印象をうける。
前にも書いたがキムタクを主人公にするなら、
歴史モノっぽい感じを出す必要はないし、
そもそも悲劇にするのに無理がある。
原作を無視すれば彼が勝って高炉がたってしまった方が
ドラマとしてのまとまりはあっただろう。

◆爆笑・レッドカーペット

 裏番組にどうしてもチャンネルを変えがちで…
でも柳原可奈子の「総武線の女子高生」は凄かった。
この系統では友近が上手なことになっているけど、
少なくともこのネタの完成度は友近より遥かに高い。
というよりも、友近のは対象そのものというより
下手な役者の演技のマネという感じ。
だから最近のアメリカものは
そもそも演技だから違和感がない。

 その他にもダイノジがあんなに面白いとは思わなかった。
ムーディー勝山もよかったし。
バカリズムの「トツギーノ」はハマッた人しか笑えない。

2007年3月20日 (火)

児童ポルノはなぜ悪いのか?

◆要旨

 児童ポルノが問題視されているが、
その根拠としては犯罪抑止と児童保護の2つがある。
しかし前者は根拠としては弱い上に問題があり、
後者についても難しい問題がある。

◆現状

 「クラブきっず」の小学校教諭・渡辺敏郎が逮捕された事件から
幼児性愛者や児童ポルノがマスコミで話題になっている。
週間文春2月22日号の「娘をハダカにして稼ぐバカ親たち」という記事
日本でロリコンが如何に巨大なマーケットであるかを取り上げ、
18日の「スタメン」もこの問題を取り上げている。
ネットでも満富俊吉郎という人が文章を書いているが、
この辺が世間の普通の反応を代表していると思う。

 現行の「児童買春・児童ポルノ処罰法」は児童ポルノを禁じているのだが、
U-15系(もちろんサッカーの代表ではない)とか
ジュニアアイドルとか呼ばれている人たちの
際どい写真集は野放し状態になっているようだ。

 あまりにこの分野に疎いのだが、
なんでも泉明日香という子が有名らしい
13歳でTバックの写真を撮ったらバカ売れだそうで
確かに世も末だという感じもしてくる。
(まあ、この子に関しては顔が老けてるから
言われなければ年齢に気づかなかったかもしれんが…)

 これに対して世論は「取り締まれ」一色。
しかし感情的、生理的嫌悪感が先立っていて、
冷静な議論はほとんどなされていない。
だから敢えて

児童ポルノ(やそれに近いもの)はなぜ問題なのか

について考えてみたい。

◆犯罪誘発阻止

 児童ポルノ反対の根拠の1つは
児童が性犯罪の被害にあう可能性が上がるということだろう。
しかし、これは根拠として弱い感じを受ける。

 まず事実として児童性犯罪が増えるかどうか分からない。
ポルノを見て興奮して犯罪を犯すやつもいるだろうが、
これがガス抜きになって犯罪を抑制するかもしれない。

 これには人間の性癖に関する考え方の相違もある。
もし人間の性癖に対して後天的な影響が大きいのであれば、
児童ポルノを表に出さないことで
幼児性愛者を増やさず犯罪を抑止できるかもしれない。
しかし、もし児童性愛が先天的なものであれば、
その抑圧は逆に大きな問題になるかもしれない。

 これらについてはっきりとした結論が出ていない以上、
急激に取り締まることはリスクがある。

 また犯罪誘発阻止という観点に立つならば
その他の多くの表現を制約しなくてはならなくなる。
今のところ問題になっているのは実在の児童のポルノだが、
ロリコンモノのエロゲーなんかも当然アウト。
エロでなくても深夜のアニメなんかは大抵駄目になる。

 また児童以外でも表現は大きく制約される。
強姦される女性が一定数いる以上、ポルノ全体が厳禁。
暴力シーンの多い映画・TV・アニメも禁止。
その他もろもろが禁止になってしまう。
表現の自由は事実上不可能になるだろう。

 この観点に立つと、問題は特に児童に限った話ではない。
しかし児童ポルノでなければここまで問題は盛り上がらないし、
実際、児童ポルノに特に問題を感じる人が多いだろう。
また表現の自由の抑制が大きくなりすぎてしまう。

◆未成年者の保護

 やはり反児童ポルノの根拠の本筋はこちらだと思う。
彼女たちは判断能力が十分でないため、
親などの大人によって操作され
結果として大きな被害をこうむる恐れがある、というものだ。

 この立場は児童ポルノの買い手を批判する根拠も与えてくれる。
児童ポルノは児童を傷つけるリスクの大きなものであり、
その購入者はその行為に加担していることになるからだ。

 しかし、やはり表現の自由の問題は残る。
児童ポルノが「不健全」なものであるとしても
「不健全」なものを表現する自由は全く認められないのだろうか。
また被写体の女の子の意思は全く尊重されないのだろうか。

 現実問題として、芸能人とやっていく上で
なるべく若い内に芸能活動を始めるのは有利だ。
もし彼女に不健全な美しさが宿っていたとして、
それを表現することを完全に禁止してしまっていいのだろうか。
ナタリー・ポートマンはやはり『レオン』が最も印象的だし、
栗山千明は11歳の時に『神話少女』というヌードを篠山紀信に撮られ、
それが伝説的なものになっているそうだ。
もしこれらがなければ、その後の彼女たちの活躍はなかったかもしれない。
またロリコンの語源となった『ロリータ』はどうだろうか。

(『レオン』と泉明日香のどちらが「不健全」か。
 これは人によって意見が分かれるのではないかと思う)

 また、この立場では多くの英才教育にも否定的にならざるをえない。
ヴァイオリンや歌舞伎は物心がつく前から叩き込まれる。
彼・彼女の人権はどうなっているのだろうか。
これはヴァイオリンや歌舞伎が社会的にまともなものだと考えられているから
問題になっていないだけで、彼らは大きく自由を制限されている。
もしヴァイオリンしかできない人間に育てられたのに、
ヴァイオリン演奏家として成功しないかもしれない。
この人と泉明日香はどちらがより悲惨なのだろうか。

 こういう極端な例でなくても、
明らかに子供が不幸になる育成環境というものがある。
しかし、それらについて行政は最低限の介入しかしない。
つい最近まで親の虐待は野放し状態だった。
「家庭」にはかなりの自立・独立性が認められているのだ。
はたしてポルノもどきを取り締まる根拠はあるのだろうか。

◆提案

 まずは現実の分析がなされるべきだ。
児童性愛者はどれだけいるのだろうか。
そうなったのは先天的なのか後天的なのか。
彼らに対して児童ポルノはどういった影響を及ぼすのか。
性犯罪を抑制するメカニズムとして有効なのは何か。

 また、10代前半の女の子に性的な表現をさせることが問題だと仮定すると、
ジュニアアイドルのTバックを取り締まるのには賛成だが、
『レオン』はR指定にでもして残すべきだと思う。
これは『レオン』の方がマシだからではない。
むしろ『レオン』の方が不健全だとすら思う。
しかし芸術性・表現の自由・女優という職業の特殊性と
児童保護のバランスを考えた上で、
『レオン』は残す価値があると思う(『ロリータ』も)。
もちろん特別な根拠があるわけではないが、
こんなところではないかと思う。

◆あとがき

 ここでは児童性愛が問題であることを前提としたが、
本当にそれは問題なのか、何歳未満が問題なのか、
それがどういう種類の問題なのか
ロリコンは本当に異常なのか、
ロリコンを糾弾する人は彼らと無関係なのか、
についてはまた別の機会に書きたい。

2007年3月19日 (月)

隠し剣 鬼の爪

 山田洋二の時代劇シリーズ第2弾。
義理と人情、少しややこしい恋愛模様など
基本的に『たそがれ清べえ』と構造は同じ。
だから見る必要があるかと言われると…

 武士の主人公(永瀬正敏)は
高潔すぎたために家格を落とされた家を引き継ぎ、
豊かではないが真面目に勤め勉学に励んでいた。
昔女中として働いていた女(松たかこ)が
嫁入り先で酷使され病気をしていたので引き取ることに。
病気が治った後も家に残って主人公の世話をする。
しかし主人公が未婚で松たかこが美人だったため
妾にしていると悪評がたち、彼女のことを思って実家に帰すことに。
その後、主人公は藩上層部の命令で元同門の謀反人と戦うことになるが、
戦いの最中に元同門は藩の部隊の新型銃で撃たれて死んでしまう。
腐敗した上層部(緒方拳)や、新型銃に象徴される
新しい社会で武士として生きていく困難を感じた主人公は
緒方拳を必殺隠し剣鬼の爪で暗殺し、
返禄して蝦夷に向かうことに決める。
最後は松たかこに告白して、一緒に蝦夷に向かうことになった。

 『たそがれ』と違うのは貧困がやや弱くなったこと、
腐敗した上層部の存在とそれをやっつけること、
あと幕末期で西洋式の武器や組織が導入され、
従来の武士のあり方を維持するのが難しくなっていたことぐらいか。

 『たそがれ』でもそうだったのだが
ラストシーンに違和感が残った。
結婚してくれと言う主人公に対して
身分が違うことを理由に躊躇う松たかこ。
最後のやり取りが以下。

松「それ(結婚して蝦夷に一緒に行くこと)は命令ですか?」
主人公「命令だ」
松「じゃあ、しょうがないですね」

 お互い惹かれあっているのはお互いに理解しているので、
問題はどういう形式で松たかこが了解するかだけの場面。
このやり取りは中盤で主人公が松を遠ざける場面でも使われていて、
(その時の命令の内容は松が実家に帰ることだった)
内容は真逆なのに同じやり取りを持ってきたのは「上手い」感じもする。

 でも主人公は身分関係から離れるために
武士の身分を捨て個人として松に思いを伝えたのに、
形式だけとはいえ身分関係のやり取りで
完結させてしまったのはどうなのか。
「美しい国」の美しい終わり方なのかもしれないが、
近代的な人間から見るとなんとも微妙だ。

 たしかに、あそこで松が急に近代的個人になって
「はい、私もあなたが好きなので結婚します」
と言われても萎えるというのも理解できる。
だったら松は黙って下を向いて肯けばよかったのではないか。
それが一番「美しい」終わり方だったと思う。

 『たそがれ』のエンディングもそうだったのだが、
最後のところで「美しい国」を称揚しようとして、
それが逆に嫌味になっている感じを受ける。
「倫理的であること」と「倫理的であることを称揚すること」は全く異なる。
山田洋二はどうもそのあたりに愚鈍なようだ。

2007年3月 8日 (木)

ちょっといい話

 夕飯に(上品に言えば)庶民的な定食屋へ。 最初は客が少なそうなので入ったのだが、 運悪く後から常連客が来て(上品に言えば) 楽しく大きなお声で会話をなさっている。 こっちも漫画を読んでたんで別に気にもしてなかったのだが、 席を立った時に隣の席の常連の姉ちゃんが 「やかましくてごめんなさいね」と一言。 驚いたがこっちも会釈をして店を出た。 公共広告機構のCMに使えそうなワンシーンだった。

2007年3月 3日 (土)

不都合な真実

<温暖化防止>ゴア氏宅で電気・ガス浪費 米民間団体が暴露

地球温暖化の危機を訴えたドキュメンタリー映画「不都合な真実」で
アカデミー賞「長編ドキュメンタリー賞」を受賞した米前副大統領、
アル・ゴア氏を地元テネシー州の民間調査団体が26日、
「自宅では電気やガスを浪費している。偽善者だ」と批判、
ホームページでゴア氏宅の電力消費量などを暴露した。

 私は環境保護とか言ってるやつは十中八九嫌いだ。
なぜなら、そいつは大体車に乗っているから。
車は毎年確実に日本人数千人の命を奪い、
その何十倍もの人を負傷させるだけでなく、
どう考えたって環境には最悪の代物だ。

 最近は環境問題への意識が高まったのか、
自動車メーカーも環境系のCMをすることが多い。
トヨタはプリウスでハイブリッドを売り出したし、
ホンダも最近エコなCMをやっていて、
しかもF1マシンをエコカラーにするらしい。
あの非常にやかましく環境破壊の象徴のようなF1カーで。

 環境保護とか言ってるやつに聞きたい。
お前らは本気で環境を守る気があるのか。
それに伴う生活水準の低下に耐えるつもりがあるのか。
特にヨーロッパの連中は先進国の生活水準を享受しながら、
同時に環境先進国のつもりなのだからお笑いものだ。

 環境が本当に心配ならどうればいいか。
話は簡単だ。車に乗らなければいい。
大抵のところは自転車で移動できる。
皆が車に乗らなければ、経済活動もそれに合わせる。
コウガイ大型店は姿を消すだろう。
通勤通学は電車を使えばいい。

 その他で大きいのは工場と家庭用電気。
これはどちらもガチガチに規制を強化し、
とにかく環境に悪い方法を避ける。
当然、様々なコストは上がるだろう。
電気代も今の何倍も払わなければならないかもしれない。

 これだけの覚悟が出来ている人だけが
「環境保護」と胸を張って主張する権利があると思う。
私は普段の生活は自転車と電車だが少しは車に乗るし、
電気もこまめに消すが使わないわけじゃない。
電気代や生活コストが何倍にもなるのは絶対嫌だ。
だから「環境保護」なんて口が裂けても言わない。

 そこまでない人が「小さなエコ」をすることもいいことだ。
多かれ少なかれ世の中はすぐには大きく変わらないし、
いくら環境悪化が急速なものであったとしても、
対応はなかなか進まないだろう。

 そういう人間には謙虚な姿勢を求めたい。
自動車メーカーがエコCMするのは最低。
車に乗る奴に「環境保護」なんて言って欲しくない。

「私たちは環境に非常に悪いことをしていますが、
 それでも以前よりは少しだけマシにやってます」

こんな所がせいぜいだと思う。

 もちろん「環境保護」が偽善であったとしても
だから即悪いというわけでもない。
例えタテマエでも「環境保護」が成立すれば、
少なくともそれに逆行する政策は取られにくい。
そういう意味で「環境保護」は重要だとすら言える。

 結局のところ、社会をより良くするのは醜悪な偽善だ。
人間が基本的に自己利益に基づき行動する以上、
そしてそれを認めたがらない以上、
こういったことは繰り返し続くのだと思う。

2007年3月 1日 (木)

未来世代への倫理

結婚し2人以上の子どもを持ちたいという(若い人の)
極めて健全な希望にフィットする政策を考えていかないといけない
                     -柳沢厚生労働大臣

◆「少子化」の死角

 私はこの発言内容自体は問題はないと思っている。
もし発言者に知性と覚悟が備わっていれば、であるが。
柳沢にはどちらもあるとは思えないし、
しかも厚生労働大臣が言うのはいかにも拙い。

 それでは彼はどう言えばよかったのか。
これには以下のような模範解答がある。

「子供を産みたい多くの人が実際に産めるための政策が必要だ」

こう言えば誰も問題にしなかっただろう。

 しかし、これは所詮「模範解答」に過ぎない。
少子化が問題視されているため気づかれないが、
冷静に考えるとこれはかなり荒い解答である。

◆子供

 まず問題なのはその他の要望との関係だ。
人々が望むものは子供だけではない。
治安、環境、消費水準(所得)など色々ある。
子供はこれらと同列に扱われる問題なのだろうか。
それとも別の質を持つ問題なのだろうか。

 少子化が問題視される現実的な背景は、
高齢化社会を迎えて社会負担率が上がっていることだろう。
しかしこれは年金が賦課方式なことが問題なだけだ。
後は頭の古い人が「国力」みたいなことを言うだろうが、
それもどうでもいいのでここでは無視する。

 こう考えると、少子化は特別な問題ではない。
それは失業や治安悪化などと特別変わる点はない。

もっといい服を着たいのにユニクロ。
もっと美味しいものが食べたいのに吉牛。
もっと広い家に住みたいのにワンルーム。
もっと子供が欲しいのに一人っ子。

 しかし、そうではない、と考える人も多いだろう。
そしてそれは実際「正しい」と思う。
だがそういった感情が上手く表現されることはない。
せいぜい「人は子供を産んで育てて一人前」といった
古臭い価値観に則るぐらいしか手がない。

◆限界

 それは何故なのか。
やや大げさに言えば、我々が依拠している近代思想が
この問題に対して全く無力だからである。

 例えば社会契約論を考えてみればいい。
そこで想定されているのは全員成人である。
しかし現実の人間はまず子供として生まれてくるし、
いずれ死んでいかなければならない。

 大人になるために成長し、
大人になったら子供を作って教育し、
子供に見取られながら死んでいく。
これらは人生においてかなりのウェイトを占めるはずだが、
なぜかこういった側面が無視されてきた(*)

(*)近代思想の1つのカリカチュアである
経済学の一般均衡理論は無限期間生きる人を想定しているのは面白い。

◆未来世代

 子供がその他の欲求の対象と根本的に違う点がある。
それは彼ら自身がその欲求を持つということである。
そして、まだ生まれていない彼らの欲求に答えることも
広い意味での政治には求められている。

 上で書いた模範解答に欠如しているのはこの視点である。
極端な話、子供は生まれてくることを望まないかもしれない。
生まれてきたとしても良い環境と悪い環境があるだろう。
子供を産む人を社会が選び始めると
優生学的になってきていかにも気持ち悪い。
しかしレビットなんかの指摘を待つまでもなく、
生まれながらに不幸せな人生を送る可能性の高い子供もいる。

 ここまで大げさに考えなくても
少子化が望ましいと考える根拠もある。
経済学のOLGモデルで考えれば、
少子化になった方が未来世代にとっては
資産が多いだけ生活は豊かになる。
分かりやすくいえば、一人っ子が2回続けば
孫は祖父母4人を独占できるため
お年玉でがっぽり儲けることができる。

 もちろんこれは未来世代のことであって、
現役世代にとってみれば少子化は望ましくない。
つまり少子化は今生きている人たちにとって問題なのであって、
次に生まれてくる子供たちにとっては問題ではないかもしれない(**)

 逆の例としてアフリカの様な国を考えてみよう。
そこではむしろ子供の数を減らした方が
次の世代の一人一人の生活水準は上がるかもしれない。

 だったら子供の数を制限するのは望ましいことなのか。
しかし本来生まれてくるはずだった子供のことはどう考えるのか。
現実に生まれてこなかったのだから無視していいのだろうか。
本来なら生まれたはずの子供を生まれなくするのは、
とんでもない人権侵害ではないのだろうか。

 こういった問題について私たちは解答を持ち合わせていない。
先ほどのOLGモデルで考えてみても、
生まれていない人間の効用をどう評価するかに定説はない。
これは今現在の我々にはどうしようもない問題なのだ。

(**)もちろん生きている世代全員の利害は一致しない

◆妥協案と課題

 現実の対応策は以下のようなものだろう。
とりあえず、まだ生まれてきていない人間のことは考えない。
しかし一度生をうければ人権を保障する(***)
子供の数に関しては、今生きている世代の効用から判断する。
誰が子供を産むかは、表向きは介入しない。

 もちろん、これが「善い」判断なのかは分からない。
また別の問題として教育があるが、
これも非常に難しい問題だ。

 この本質的な問題をどうするかは、
今後の大きな課題だと思う。
しかしそれは解決可能なのだろうか。
そして、この問題に取り組むことは
はたして未来世代にとって望ましいことなのだろうか。

(***)どの時点で「生をうけた」かには解釈の余地がある。

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