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2007年2月28日 (水)

トロイ

 『グラディエーター』に続く歴史もの。
大迫力の戦闘シーンも最早見慣れたもの。
主人公の造形もやっぱり適当。
別にそんなもん提供する気もないと言われたらそれまで。

2007年2月26日 (月)

やればできる

 よく「うちの子はやればできるんです」
って言われる親御さんがいるんですが、
大体みんな「やればできる子」なんですよね。
でも実際にやれる子は少ないわけで…
                 -ある塾の先生

 丁度2週間程前ですが、
テレ朝が『人間関係力テスト』をやってました。
普段「空気を読まない」と言われることが多いので、
やればできる子ってのを証明しようと頑張りました.。

 その結果の「人間関係指数」は
平均の100を少し上回った程度。
評価は「標準」でごくごく普通の成績。
これでホッと一安心。

 ところで人間関係力テストは5つのブロックからできています

第1ブロック 【人を見抜く力】
第2ブロック 【心の柔軟性】
第3ブロック 【人の気持ちを読む力】
第4ブロック 【センス】
第5ブロック 【心の安定性】

 番組中の全国平均との比較すると
第4ブロックまでは平均を上回るペースでした。
「達人」は無理でも「充実」を狙える感じ。
ところが最後ブロックで大きく平均を下回ってしまいました。

 第5ブロックは3つの部分に分かれていて、

5-1、他人への信頼度
5-2、心の穏やかさ
5-3、感情を抑える力

 特に「他人への信頼度」と「心の穏やかさ」が壊滅。
まあ案の定といった感じの結果でした。
特に最後のブロックは人間関係力というより、
人間関係に向いているかどうかの指標。

 もちろん「できない」ことと
「やらない」ことの差は常に曖昧なのですが…
はからずも「やればできる」を証明する結果になってしまいましたとさ

2007年2月20日 (火)

ヤバくない経済学

「やばい」の語源ははっきりしないらしい…

 アメリカでベストセラーになったらしいこの本
Amazonのレビューなんかをみても高評価が多いが、
あんまり面白い本だとは思わなかった。

 理由は幾つか考えられる。
自分が経済学をそれなりに学んだため、
誘因(インセンティブ)に基づく分析が当たり前になっていること。
情報の非対称性がある場合に、
情報優位な側が「悪い」ことをするのは当然。

 もう1つは社会生物学などの知識があったこと。
双子の研究で生みの親のIQが子供のIQに強い影響力を持ち、
育ての親のIQが影響力をあまり持たないことは常識。
これは学校の成績でもほとんど同じことだと思う。

 また、原因が遺伝説にせよ環境説にせよ
社会階層の低い人の犯罪率が高いことも常識。
まあ、これを中絶と結びつけたのはいい着想なのかもしれないが、
これを事前に聞いていたのも良くなかったのかもしれない。

 これらは本来、社会学者がやるべき仕事だが、
それをできなかったのは彼らの知的怠慢に過ぎない。

 1つ疑問なのは、後半の話が「誘因」と関係ないこと。
統計を「正確」に扱うのも経済学の1つの「方法」なんだろうが、
それは「科学」の常識だと思う。
だから4章からは特に経済学特有の分析ではない。

 と思っていたのだが、F木さんが言うには
「誘因ではないことを示すことも誘因分析」とか。
なるほど、だったらこれも経済学と言えなくもないか。

 まあ18歳の俺なら面白いと思ったかもしれない。
でもそれなりに歳と知識を重ねて大人になると、
「悪ガキ」の話の相手なんてできません。

 本質的な話では2つの論点が重要。
1つは「誘因」にはいわゆる経済的なもの以外のものがあること。
(幼稚園児を迎えに来る母親への罰則の話のところです)
それでは経済的誘因以外の誘因とは何か。
彼らは社会的誘因と道徳的誘因と名づけているが、
これらの概念に中身はほとんどない。

 大事なのは人間がなぜこれらの誘因を持つかということ。
経済学者だったらこれらの誘因を外生的に扱えばいいのだろうが、
彼らの話ではこれらは外生的なものではない。
なぜなら幼稚園の運営者の「経済的な」政策によって
道徳的誘因は失われてしまったのだから。

 もう1つは、1つ目の問題とも関係するが、
以下のような彼らの主張だ。

「経済学という科学は基本的に、
 決まった対象があるわけでなく、
 むしろ方法の集まりであって、
 だからどんなにおかしな対象だって扱っていけないわけじゃない」

 彼らはミクロ屋らしく誘因を強調するのだが、
マクロ屋なら「ソローモデルはどうなる」と言うだろう。
多くのマクロ屋は「最近のマクロは最適化問題を入れてます」と言うだろうが、
代表的個人と企業に香辛料をまぶした代物が
そう言う権利を持つかどうかは微妙だと思う。

 しかし重要なのはこんなところではない。
重要なのは「科学とは方法なのか」という部分である。
それに対するのは「科学とは対象である」という主張だろう。

 これは非常に重要な問題だが、
これから論ずるには長すぎるので
またの機会ということで。

2007年2月17日 (土)

グラディエーター

 大作、なんでしょう。
アカデミー賞を5部門受賞。
ゴールデン・グローブ賞
MTVムービー・アワード

 でもなぁ…

 そりゃCGは凄いですよ。
別にそれが嫌味になってるわけでもない。
戦闘シーンも迫力がある。
主人公はかっこいいし、
姫も憂いをたたえた美人だし、
悪役の皇帝も上手くやっていると思う。

 ストーリーに無理があるかもしれないけど、
それが致命傷になっているわけでもない。
歴史考証がどうたら言われているけど、
別に映画なんだから関係ない。

 お金もかかってるし実際客も入った。
『トロイ』とかの歴史ものが後に続く。

 でも、何か変です。
登場人物に感情移入することができない。
やっぱり人物の感情表現が下手なんだと思う。

 まず主人公のモチベーションがよく分からない。
妻子を思う心なのか、皇帝への恨みなのか、
前皇帝への崇拝なのか、ローマへの忠誠なのか。
故郷の回想シーンも入るし、それが重要なのもわかるが、
これらのどこにウェイトがあるのやら。

 同僚の剣闘士が彼のために死ぬのも理解不能。
そりゃ、あれだけ強くて命を救ってくれれば、
彼を慕うようになるのも流れとしては自然だが、
それを伺わせるような場面が少ない。

 劇場公開版と完全版で違うのかもしれないが、
だったら分かりやすく編集してもらいたい。
ドラマとしての完成度の問題だと思う。

2007年2月15日 (木)

バレンタインデー

 今年の2月14日はひたすら家に引きこもってた。
退屈しのぎにバレンタインデーという「制度」について考えた。

 バレンタインデーは女性が男性に告白する日だが、
クリスマス同様、恋人や夫妻が一緒にすごす日でもある。
なぜこういった日が重要かというと、
パートナーが浮気をしていない確認になるからだ。

 男女にとって重要な日は結婚記念日や
付き合い始めた記念日、お互いの誕生日なんかもある。
しかしこれは彼・彼女に特有な日であるため
別にこの日に一緒に過ごしたとしても、
相手が浮気していないという保障はない。

 しかしバレンタインデーやクリスマスはそうではない。
これらの日は自分にとっても浮気相手にとっても重要な日だからだ。
だからその日に自分と一緒に過ごすということは、
パートナーが浮気をしていない証拠になる。

 逆に言えば、そうでないパートナーは浮気をしている可能性が高い。
たとえそれが真っ当な用事であり、それを確認できたとしても、
同じ理由で浮気相手に言い訳をしているかもしれない。
だから、特に女性が、そういった日を重視するのは合理的だ。

 ちょっと前に明石屋さんまが
「僕はクリスマスには絶対仕事してるんですよ」と言ったら、
加賀まりこに「そう言って小鳥ちゃんたちに言い訳してるんでしょ」
とつっこまれ、さんまが苦笑いするってのがあったな。
あれは何の番組だったんだろう?サンタクかな?
(今の今までサンタクロースとかけたシャレだと気づいてなかった…)

 この「制度」に従わない人はパートナーを得にくいし、
もしいても別れてしまう可能性が高くなる。
結局、「制度」に従わないタイプの人は
パートナーがいない可能性が高くなるし(進化的説明)、
「制度」に従うことが合理的な戦略になる(Nash均衡)。

 もちろんこういった「制度」が普及するには
一定の割合がそれに従うことが必要だが、
それを1度超えてしまえば後は一気に普及して維持される。

2007年2月14日 (水)

梅蘭焼きそば

 K藤とおいしい「かた焼きそば」を食べる企画。
横浜の中華街なのでY野さんも参加しましょう。
その他にも参加メンバーを募集しております。

 最近は橋本によく行くから
ついでに行けばいいじゃんとか思っていたが、
新宿-橋本と橋本-横浜って
あんま距離がかわらねえでやんの…
町田とか座間だったらまだ近いんかなぁ…
ベルーガの人で行きたい人はいないだろうけど、
日産スタジアムとか三ツ沢とかに
サッカー見に行ったついでならどうでしょう?

 あんまりイメージにないんだけど、
K藤は意外と食い物に金と時間を惜しまない(時がある)
今日も神田までカレーを食いに行ってきました。
電車で行くのも馬鹿らしいので、
K藤が俺のチャリに乗って、
俺はTシャツ1枚で走ることに。
宇沢の再来だ!」とか叫びながら。
傍から見れば完全に頭がおかしい人なわけで。
神田近辺の皆さん、お騒がせしました。

2007年2月12日 (月)

うどんを食べながらガラパゴスを思う その3

 こうして考えてみると、
多様性の維持というのは正しいようで
特別根拠があることではない。

 ただし「正しい和食」の認証制度に象徴される
日本側の動きは単純な文化の多様性維持の問題だけではない。
むしろその背景にあるのは、
多様性の相互理解の欲求ではないかと思う。

 欧米のヘンテコ和食は欧米の日本理解の象徴である。
いつまでもたってもエキゾチック・ジャパンから抜け出さない。
他人に自分を知ってもらいたいというのは
普通の人間関係でも見られる欲求だと思う。

 だったらやることは1つだ。
日本の文化を知ってもらえるように努力すること。
日本は文化的なマイノリティーなので
この分野で苦労することは間違いない。
ただ、その努力はまだまだ不足している。
政府もアホな農水大臣に騒がせるより、
もうちょっとマシな文化政策を考えた方がいい。

 しかし、私はこの議論には賛成しない。
別に外人が日本のことをどう考えようが関係ないと思う。
日本人が日本のことを知ってもらいたいと言うとき、
その対象はまず間違いなく欧米である。
これは劣等感の裏返しに過ぎない。

 自らの価値基準をもっていれば、
他人の評価などはどうでもいいことだ。
むしろそちらで努力された方がよろしいと思う。
ガラパゴスのゾウガメは発見されて喜んだだろうか?
彼らは何にも言わないけれど、
迷惑だったに違いない

2007年2月10日 (土)

うどんを食べながらガラパゴスを思う その2

 最近、アホの農水大臣が「正しい和食」の認証制度をぶち上げた。
確かに海外で食べられている「和食」はキワモノ揃いだ。
作っているのも韓国人や中国人だったりするらしい。
イタリアがレストラン認証制度で頑張っている先例もあるし、
こういった日本の反応も理解できないこともない。
もちろん、それに対してはアメリカあたりからの反発も強い。
このあたりはニューズウィーク日本版2007-2・14号、
その名も「ここが変だよ 寿司ポリス」に詳しい。

 別にこういう制度はあってもなくてもいいと思う。
確かにアメリカに行ってトンデモ和食を食わされたら話にならんから、
まともな店とそうでない店の区別がつけば便利だ。
今のところ「ジャパン」に妙な付加価値があるから、
それに金を持ってるアメリカ人が群がってるだけで、
その分け前に預かろうともめるのも理解できる。
日本政府はさっさと認証制度を作って儲けたらいい。
制度を作ってもそこから漏れた店が支持される可能性もあるが、
そうなったら単に儲け損なっただけでしょうがない。

 ただし、問題があるとすれば
アメリカナイズされた「和食」の逆輸入だろう。
かく言う私もマグロの刺身には必ずアボガドを添えるようになっている。
もちろん多少の交流なら文化を豊かにもするが、
マックなんかが広まっていることを考えると、
今後は日本でも変な和食が広まらないとも限らない。
それはいくらなんでもヒドすぎる話だ。

 ここで問題は2つある。
それは変な和食が本当に日本で広まるかという実証的な問題と、
それが広まるのは悪いことなのかという規範的な問題だ。

 1つ目の問題は難しい。
実際にアメリカのヘンテコ料理が普及する可能性は低いと思う。
ただマックの普及に象徴されるように、
既に和食は崩れ始めているとも言える。
見た目は和食でもレトルトやインスタントの味噌汁なんてのもある。

 和食というのは日本のその他の文化と同じように繊細な印象を受ける。
繊細というよりは箱庭的と言った方が正確だろうか。
限られた範囲の中でどれだけ優れたものを作るか。
パスタもうどんも小麦と塩と水から作ったものだが、
うどんはそれだけで料理として成立している。
パスタはどんなに美味しくても、
それだけで食べることはない。
うどんも「狭い範囲での自己完結性」という
日本の文化を象徴している。
これは盆栽や日本刀にも通じる部分である。

 ただし、繊細なものは失われやすい。
その他の文化と同じように和食も失われつつある。
ただし、それが外的な要因なのか内的な要因なのか、
そしてその2つが区別できるのかは分からない。

 より本質的なのは2つ目の問題だ。
もし日本人がマックやヘンテコ和食を受容し、
「本当の和食」を食べなくなったとしても、
それに何か問題があるのだろうか?
人々は食べたいものを食べるだけだ。

 もちろん、食事というのは単純な自己選択の問題ではない。
子供の頃からの食習慣にかなり影響を受ける。
経済的だからという理由で変な料理が普及する可能性もある。
文化的な観点からの否定的な意見は無視できない。

 結局のところ、文化の多様性というお決まりのテーマに行き着く。
文化の多様性はどの程度保護されなくてはならないのだろうか。
フランスのように躍起になって保護するのが正しいのか。
それともなるに任せるしかないのだろうか。

 これはどちらの意見が正しいということはない。
もちろん、なんとなく多様性の維持が正しい気もするが、
ミル父の言うように「ケルト人はヨーロッパ文明に併合されて良かった」
ということだって不可能ではない。
この問題に結論が出るとは思えない。

 この問題は生物界の問題にも通じている。
最近、物流が盛んになるにつれて
外来種が在来種を脅かすという問題が注目されていて、
在来種を守ることが主張されることが多い。

 だが、なぜ在来種を守らなくてはならないのだろうか。
弱肉強食と言われるように、
進化の過程では不適応なものは排除される。
たまたま1つの進化的定常状態にあったとしても、
それが守られなければならないというものでもない。

 1つの意見としては、
一度失ったものは取り返しがつかないということだろう。
また人間が生物進化にコミットすることへの反感もある。
しかしこれらにしても生態系や進化の価値を前提にしていて、
それを認めない人を納得させることはできないだろう。

2007年2月 9日 (金)

うどんを食べながらガラパゴスを思う

 ここ数年、花粉症のせいなのか春先に胃がやられることが多い。
今年は暖冬の影響か、それが早く来ているようだ。
昨日の夜も全く腹が減らず、ご飯と納豆しか食べられなかった。

 だから今日の昼も重い料理は避けたいところ。
しかしあっさりした料理というのは意外と難しい。
和食の店でも揚げ物や油っぽい肉を出す店は多いし、
中華・イタリアン・エスニックは論外。
かといってそばは高くて馬鹿馬鹿しいし、
コンビニの飯も食べたくはない。

 そこで、とうとう胃を決してある店の暖簾をくぐった。
その店の名は「はなまるうどん」である。

 香川県出身者にとって県外でうどんを食べるほど鬼門なことはない。
最近の讃岐うどんブームで県外でも自称「讃岐うどん」の店は増えたが、
いい噂を聞いたためしがない。
「はなまるうどん」は一応香川にも店を出しているのだが、
地元での評判も決していいとは言えない。
香川を出て8年にもなるが、
加ト吉の冷凍うどん以外は口にしたことはなかった。

 店の前のディスプレイを見て1つため息。
もうこの時点であまり期待できないことがはっきりする。
なんというか、麺にコシと輝きがない。
地元にいるときは別に讃岐うどん信者ではなく、
食べる機会も多くなかったのだが、
それでも写真を見ただけで分かってしまうあたりが悲しいところ。

 食べてみると案の定。
讃岐うどんというより、
学校給食で配給される「ソフト麺」に近い代物。
出汁も何を使っているのか微妙に香りが変、というか強すぎる。
おでんもこんにゃくには弾力がなく、豆腐も不味い。
スジ肉だけは唯一まともだった気がした。

 ただ、かけ小とおでん3品で400円そこそこは悪くない。
相場的にも香川と大きく違わないと思う。
これには救われる思いがする。

 いったいなぜ東京の連中は千円近くもする蕎麦を平気で食べるのか。
どう考えたってファーストフードに過ぎないはずなのに、
通ぶって大枚をはたく神経を理解できない。

 うどんも蕎麦も所詮はファーストフードである。
高くても500円以内で食べられるのが正しい姿だ。
最近は変なブームに浮かれて讃岐うどん信者が増えてしまったが、
地元では安くて旨いから食べているに過ぎない。

 それに旨いといってもファーストフードの範疇でのことだ。
高校時代の恩師は「うどんは所詮小麦と塩を練ったもの」と言いながら
フランス料理屋でフォアグラを食べてたっけ。
それが正しい感覚というものです。

 そもそも讃岐でうどんが受け入れられたのは、
原材料が取れやすかっただけのことだ。
丸亀の小麦、瀬戸内の塩、小豆島の醤油。

 香川には年寄りが多いからいまだにうどんは人気があるが、
若い人はマックやケンタッキーに行ってるし、
最近はフレンチ・イタリアンの店も増えてきた。
それでも所得が低い人が多いし、
女・年寄りの雇用先としても製麺所・うどん屋は重要だから、
今後もそれなりにやっていくのだと思う。
(まあ、使ってるのはオーストラリア産の小麦だが)

 だが讃岐うどんの県外での受容のされ方を見ると、
おそらく本物の讃岐うどんが食べられる可能性は低いままだろう。
文化の画一化が懸念されている日本においてすら、
他の文化の受容がどれほど難しいことか。
いわんや他国においては、である。

 続く

(追)問題。話はここからどうやってガラパゴスにたどり着くのでしょうか?

2007年2月 8日 (木)

あるある、グルメ、痩せ過ぎモデル

 TVを見るのは楽しい。
そこには人々の欲求が反映されているから。

 「あるある」の捏造問題は社会的な影響が大きかったらしく、
今なお過去の放送の問題点が蒸し返されている。
TVが嘘っぱちの情報を流したことに対して真剣に怒る人がいる一方で、
訳知り顔は前から怪しさに気づいていたと鼻高々。

 だけどなんでこんなに「健康番組」に人気があるんだろうか。
1つは間違いなく痩せたがっている女の人が多いということ。
若い女の子には痩せ過ぎが多く、拒食症まで流行っているそうな。

 フェミニストはそれも男社会の問題というだろうが、
男から見ても痩せ過ぎの女の人は多い。
どう考えても彼女たちが目指している理想の体と
男が好む体型が一致しているとは思えない。

 問題はやはりファッション。
最近のかっこいい服には
そもそも痩せてないと着られないものも多いようだ。
それを細身のモデルがかっこよく着こなすものだから、
それに憧れる女の子が増えても仕方ない。

 そこで欧米では痩せ過ぎモデルを排除しようという動きもある。
確かにモデルの影響力を考えたら現実的な対処だが、
職業選択の自由の問題とも絡むため微妙なところだ。
腕っ節に自信があるやつが格闘技をやっても、
それを素人が真似して人を殴ったら犯罪だ。
だったら生まれつき体が細い人がモデルをやっても、
それを真似して拒食症になるならそいつが馬鹿だとも言える。
ただし、モデルの場合は究極的には服を売る商売に立脚していて、
ただの見世物とは違うという意味で難しい。

 しかし「あるある」なんかの健康番組を見ているのは、
若い女の子よりもいわゆるおばさんの方が多いと思う。
「あるある」でもダイエットとアンチエイジングは特に人気だったらしい。
痩せることと健康がリンクしていたのは間違いない。

 確かに高齢化社会を迎えて健康に対する不安感はある。
かといって「これを食べれば痩せる」といった標語は
どう考えたって短絡的だ。
何もせずに痩せる物質があったとすれば、
それに最も相応しい名称は「毒」だろう。

 痩せるのも健康になるのもやることは決まっている。
適度な運動、バランスの良い食事、睡眠時間の確保。
特別な決定打があったらそれはすぐに普及するはずで、
そんなものがないから次々あれこれ出てくるわけだ。

 そんなことは常識があれば分かること。
それが通用しなかったというのは、
世の中に常識がある人が少ないということだろうか。
しかし、それだけではないと思う。

 TVで流行のテーマといえば
「健康・ダイエット」「ファッション」以外では「グルメ」がある。
TVに限らずおいしい店や料理を紹介する情報媒体は多い。
しかし、おいしいものは普通少し体に悪いものである。
だからCMで「おいしいけれど体にいい」が決め台詞にすらなってしまう。

 「グルメ」に限らなくても人々は体に悪いことが大好きだ。
生活を楽にすればするほど、運動する機会は減ってしまう。
たばこや酒がどんなに体に悪くても、やっぱり止められない。
ただ、それに対するやましさがあるからこそ、
それを埋め合わせてくれる「健康物質」への欲求が強いのだと思う。

 人々が体に悪いことを好み、
それへの対処にも自堕落な手法を好む以上、
「あるある」はなくなっても同様の手法は繁盛し続けるだろう。

 とまあ、人を馬鹿にして酒の肴にするのも悪くはない。
ただ、これには笑って済ませない問題もある。
どんなに自己規律がしっかりしている人でも、
歳を取って老いや死が現実になってくれば不安になる。
そうなった時に健康番組に引き寄せられてしまうのも
あるいは仕方ないことなのかもしれない。

 「晩節を汚す」とか「有終の美」という言葉があるように、
老い方、死に方にも人生の有り様が反映される。
高齢者はどうやって死んでいくのだろうか。
若い人は死に向かってどういう準備をしているのだろうか。
既に生まれる人より死ぬ人の方が多くなってしまった日本において、
老い方・死に方というのはもっと考えられていいテーマだと思う。

2007年2月 5日 (月)

フットサルでの効率的なゴールの奪い方

 以下の文章は自分のフットサルチームの経験を元にしています。

関係のない人には分かりにくい点が多くなっています。

◆効率的に技術を発揮して点を奪うには

 昨日の相手は技術、連携、運動能力で上回っていた。
しかし、こちらもカウンターからゴールを決めて、
一方的にやられることはなかった。

 立場を逆にすると塩との試合に多いパターン。
ボールをキープして攻めてもなかなか点が奪えず、
カウンターを食らって失点してしまうことが多い。

 なぜこうなるかというと、
相手に引かれてしまうとゴールを奪うのが難しいから。
ゴール前に3、4人で守られてしまうと、
そこをこじ開けて点を奪うのは難しい。

 逆に昨日の試合でこちらが失点したのは、
速攻を食らったときが多かったと思う。
数的に少なくなってしまうとピンチになるが、
数的同数でも1対1や2対2になってしまうと、
スペースがあるため技術を発揮しやすい。

 それではどうやったらその展開に持ち込めるのか。
切り替えを早くして正確にボールを運ぶのは当然。
最大の問題はそれ以前の「ボールの奪い方」と「奪った直後」だと思う。

◆ボールの奪い方

 サッカーでもそうだが、
ボール奪取から最もチャンスになりやすいのは、
横パスをカットしたときだろう。
それではどうやったらそういう状況に持ち込みやすいのだろうか。

 典型的なのはサイドでボール保持者を2人で挟んでしまい、
限定したパスコースにパスを出させて3人目がカットする方法。

 重要なのはどこでパスを奪うかという共通理解と、
パスを奪う人が正確にパスが出るタイミングを読むこと。
これができれば、簡単にチャンスが作れる。

◆奪った直後

 ただ、上の様な方法は体力が必要になるし、
守備が嫌いで年齢が高い人の多いベルーガに相応しい方法ではない。
どうしても、ボールを奪う状況の計算はたちにくい。

 それでは普通の状況でボールが奪えたとして、
どうすれば素早くボールを運ぶことができるのか。
実はボールを奪った直後というのは結構危険で、
無理につなげようとすると逆に奪われてカウンターを食らうことも多い。
かといってクリアするだけではチャンスは作れない。

 重要なのは奪った人間がどれだけ落ち着いてパスコースを探せるか。
そして、それ以外の人間がパスコースを作ることができるか。
理想的なのは2人がチャンスになるコースに走り、
1人が安全なパスコース、多くの場合は斜め後方に動くこと。

 こう書いてみると、これは別に速攻に限った話ではなくて、
普通にパス回しの鉄則であることに気づく。
頑張って練習するしかないですね。。。

2007年2月 1日 (木)

うぬ機械

 パタリロに、処女生誕したロボットの子に
神秘的な力が宿って大騒ぎになる話があったな、
なんて思い出してみた。

 大騒ぎになっているみたいだが、
冷静に考えてみると何が問題なのかは分かりにくい。
おそらく女性差別ということなんだろうけど、
1つの思考実験として厚生労働大臣がこう言ったらどうだろうか?

「女は産む機械です。男は産ませる機械です」

 これなら男女を平等に扱っているから問題はないんでしょうか?
どうせ辞任するなら、もう1つやらかしてから辞任してもらいたい。

 ただ、人間を機械呼ばわりすること自体に対する反発もあるようだ
だったらやっぱり「男は産ませる機械」と言っても駄目なんだろうな。

 じゃあ、なんで人間を機械呼ばわりしては駄目なんだろうか?
騒いでる人は「人権」と主張したいらしい。
じゃあ「人権」とはなんじゃらほい。
リンク先のHPから言葉を拾うと「自己決定権」ということらしい。
なるほど、機械は自分であれこれ決められないが、
人間様は自分で決められるし決める権利があるべきだ、と。

 だが不思議なことに、世間には疑問視されないけれど
人間様の人権を否定する発言が五万とある。

あの人はA型だから → 個性の無視、人格成長の否定
利己的な遺伝子 → 人間の主体性の無視
火星人だから地獄に落ちるわよ → 運命論
今日の獅子座の人には素敵な出会いがあるかも → 意味不明
あなたのスピリチャルがどうしたこうした → ???

 「利己的な遺伝子」を別にすると、
こういった発言をした人が糾弾されたという話をほとんど聞かない。
「利己的な遺伝子」にはまだ科学的な裏づけらしきものがあるが、
その他は全くワケワカメというのもの面白い。
それは要するに、人権だの自己決定権だのはお題目で、
話の中身が気に入るか気に入らないかというだけの違い。

 なるほど、いかにもキカイ的な反応ですな。

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